2010年1月30日土曜日

: 臨終の現場写真

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● 1994/05[1994/03]




 荷風氏が最後に住んだ家は大体こんな間取りだったらしい。
 亡くなる2年前に新築したものである。
 京成電車の八幡駅のすぐ北、八幡小学校の裏手にあたる。
 玄関を入ると、三畳、四畳半、六畳と部屋が東西に並んでいて、裏手に台所と便所があった。
 日々送られてくる寄贈本や雑誌は多かったろうが、片っ端から古本屋へ打った。
 家具らしいものは机と火鉢ぐらいなものだからさっぱりしたものであった。



 さっぱりしていたといっても、きれいさっぱりなのもなかったのではない。
 むしろ、細々としたものが部屋中に散らかっていた。
 日用品や食料品のビンや缶、箱の類である。
 布団は敷きっぱなしか、せいぜい二つ折りにされたくらいだろう。
 この家に暮らしたのは77歳から79歳という高齢で、しかも独り暮らしだったのであるから、無理もない。
 亡くなる直前には、洋服を着たまま寝たらしい。

 亡くなった日の部屋の一部が新聞に写真で出ていた。
 通いの掃除婦にも絶対立ち入らせなかった奥の六畳はクモの巣だらけだった。
 愛用のコウモリ傘がその部屋の長押に引っ掛けられていた。
 この写真にはおなじみのバッグが見え、その右にこんもりと丸まっているのはオーバーかなにかだろう。
 そして、その向こう側におそろしい光景がくり広げられていたのである。

 「ずいぶん暗い写真だなあ」と思った。
 雰囲気が暗いより何より、全体が黒々としていて、何が写っているのかちょっとわからない。
 国会図書館で探し当てた永井荷風臨終の現場写真を見ての感想である。
 暗がりの中で目がなれてくるように、だんだんと現場の様子がわかってくる。
 わかってくると、背筋がだんだん寒くなってくる。
 火鉢の向こうに人間らしきもの横たわっているのだ。
 
 一番よく見なければならないのが横たわっている遺体なのだが、顔は暗くてよく見えない。
 目を閉じて顔の半分をこちらに向けているのが、かろうじてわかるぐらいだ。
 頭の部分がやけにすべすべしているようなのは、マフラーをかぶっているらしい。
 背広の裾が乱れてまくれ上がっている。
 背中と腰の部分に光が当たっていて、老人の体の輪郭を浮かび上がらせているが、手は物の陰、足は真っ黒な闇の中で、いずれも見えない。

 荷風氏の臨終写真は、没した当時、何かで見た覚えがあるのだが、なにせ30年以上昔のことだから、よく覚えていない。
 今回国会図書館で見直してみたしだいであるが、マイクロフィルムに収録されていたから、投影器で映写して見ることになる。
 左右50センチほどに拡大された画面と一時間ほど対面してきた。

 手前で倒れもせず置かれているのが、荷風氏が片時も手から離さなかった「つり下げバッグ」だ。
 この中に預金通帳や元金が入っていたはずである。
 「定期・普通預金合わせて二千五百万円」とは、当時の新聞記事の報じたところである。
 万年床のかたわらにあった火鉢の中に、食べ物を吐き、そのまま倒れたらしい。
 よくみると口のあたりだけ畳が濡れている。

 人物の死体の写真が報道されるのはまれである。
 死者への礼、生者への恐怖をおもんばかって公開がはばかられる。
 しかし、幸か不幸か公開されてしまった写真はさすが、われわれに訴える力は大きい。
 国会図書館にマイクロフィルム化されていたこの写真は、「アサヒグラフ」昭和34年5月17日号に掲載されたものだ。
 警察の検視で現場が立ち入り禁止になる直前、どさくさに紛れて撮影されたのであろう。
 現在、国会図書館まで行かずとも、もっと手軽にみたくば、毎日新聞社「昭和史全記録」(1989)の628ページに小さな写真で出ている。

 奇人変人としてあらゆる関門を潜り抜けてきた最後の姿である。




 【習文:目次】 



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