2010年1月15日金曜日

: 文章の燃料


● 1984/04



 文章を一篇ものにするに際して、その構成については守るべき原則がある---、われわれはそう信じている節がある。
 そして段落の配置に、なにか目当てになるような規則があるのではないか。
 規則が大袈裟なら「道しるべ」でもいい、何か導きの糸があるはずだ。
 そこで書店へかけつけると、たしかにたいていの文章入門書に、
「起承転結法の感覚で、文章の論理を組み立てるのがよいでしょう」
 と、書いてある。

 文章の構成法にコツも秘訣も原則もない、と説く著者も多い。
 こう説く著者は、できるかぎりたくさんのよい文章を読みなさい、とつけ加える。
 われわれとしては途方に暮れるほかない。
「草野球チームの一員としてなんとか内野で重きをなしたい、どうすればいいか」
 と問うたのに、巨人の篠塚や大洋の山下のプレーをよく観なさい、といわれたようなものである。
 冷たく突き放された、という感じをわれわれは持つ。

 三木清の『解釈学と修辞学』の冒頭部分を引く。

 -----すなわち解釈学はすでに作られたもの、出来上がった作品に対して働く。
 文献学者ベエクの言葉を借りれば、
  「認識されたものの認識」
 を目的としている。
 一般的にいえば、解釈学は過去の歴史の理解の方法である。

 よい文章をいくら読んでも、われわれは「解釈」を手に入れるだけではないのか。
 「過去」を得るばかりだ。
 われわれは「いま、どう文章を組み立てるべきか」という難問の前で頭を抱えている。
 「現在(いま)」が問題なのだ。
 それにしても、われわれの大多数は、原稿用紙を前にした途端、なぜ「文章の構成については、なにか守るべき原則があるらしい----」と、怯えるのだろう。

 唐の思想家に韓愈(768---824)という人物がいる。
 「天下の大文章家・韓文公」といった方が分かりやすい。
 おそるべき勉強家で、ありとあらゆる学問を、みな自学自習でやりとおしたという。
 これから引くのはこの韓文公の『科目に応ずる時、人に興ふる書』という文章である。
 ------ 略 -----
 原文わずか二百六十余文字。
 韓文公はなぜこれを書くことができたのだろうか。
 目的があったからだろう。
 書かねばならぬ切実な理由があったのだ。
 だからこそかけたのである。
 これはどうしても書かなくてはならぬと自分に百回も千回も言い聞かせ、誰に向かって何を書くのかをぎりぎり絞り上げる。
 別にいえば、書かないで済むことは書くな となるが、とにかく「書かねばならぬ」という思い込みが文章の燃料になる。
 このときこそ、よい文章をたくさん読むことが大事になる。
 われわれは順序を間違えていたのである。
 というと、何だかやたら精神主義を振り回しているもたいだが、そうではない。
 「燃料の作り方」はちゃんとあるのである。
 
 われわれはなぜ文章を書くのがこれほど苦手なのだろうか。
 だれでもが「いい文章をが書けたらよいうのに」と願っているのに、どうして机の前に座ると、ああ手もなく金縛りになってしまうのか。
 天才を自称する人なら話は別だが、たいていの書き手は机の前に座った途端、ほとんど神に近い読み巧者(ごうしゃ)を、読者のなかに想定してしまう。
 そこで閻魔の前に引き出された嘘つき亡者のように緊張する。
 白い原稿用紙を前にした書き手は「謙虚そのもの」になる。
 よほど図太く居直らないと、この謙虚さを振り落とすのは至難の技になる。
「 ほとんど神に近い読み巧者」と対抗するには、書き手の方も、せめて鉄人ぐらいまでは自己を鍛えあげなければならない。
 なら、その方法はあるのか。

 中島健蔵の文章を引く。

 文章は、自然発生的に生まれるものではない
 まず、「
教えられ、練習させられ」て基礎的な表現が与えられる。
 それが初歩の作文です。
 次に自発的に、自分の内側の動機によって書き始める。
 はじめのうちは作文の続きのようなものでしょう。
 そのうちに、書くことによって自分の考えが育ち、深まることを発見する。
 幸か不幸か、自発的に文章を書き続けるような機会にめぐりあわず、そのまま時を過ごしてしまうと、表現力が停滞し、書きたいことがあっても、うまく書けないことになります。

(「文章を書く心」)

 文章を書くことは、話す、聞く、読むことのように半ば自然発生的なものではなく、強制されてようやく身につく能力であり、それも使っていないとすぐに錆びつくという厄介な能力なのである。
 「強制的」というところに、事の本質がひそんでいる。
 ということは、人間の営為の中で最も人間から遠い行為、それが文章を書くということなのである。
 とすれば、難しくて当然だろう。
 だいたいが、あらゆる表現手段は不完全である。
 とりわけコトバはそうだ。
 コトバは社会が作ったもの、社会共通の慣習であり、社会的形成物である。
 個人からみれば「出来合い」であり、「中古品」であり、「お下がり」であり、「約束事」にすぎない。
 ごくごく、おおざっぱな代物なのである

 コトバは出来合いの約束事であり、勝手気ままに生み落とされたものであり、古ぼけて粗雑なシロモノである。
 これに対して、われわれが書きたいと願っているのは、われわれの「心の生活」だ。
 別に言えば、具体的で、個別的で、まことに特殊で、微妙で、流動的で、生き生きとしていて、不合理な、「体験する意味の世界」なのである。
 この混沌未分の内的体験を出来合いの約束事で形にしなければならないのだから、これは難しいに決まっている。
 穴だらけの網で小魚をすくうような、塗箸でソーメンをつかむような、そして厚い手袋をはめた手で床に落ちている一円玉を拾うような大事業なのである。
 文章を書く難しさの根本はここにある。
 よほど覚悟してかからぬと、この難しさをのり越えることはできないだろう。
 このブ厚い壁を突破するに足る強力な燃料は何か。

 佐藤一斎は幕府儒員で昌平黌教授、渡辺崋山や佐久間象山や横井小楠らの師にあたる人だが、この一斎を三嘆させた手紙がある。
 奥羽の博労で亀という男が書いたものである。

  一金 三両
  ただし馬代
 右馬代 くすかくさぬかこりやだうぢや
 くすといふならそれでよし
 くさぬといふならおれがゆく
 おれがゆくならただおかぬ
 かめのうでにはほねがある

<訳>
   返すか返さぬかこれどうするだ。
   返すというならそれでよし。
   返さぬというなら俺がゆく。
   俺がゆくならただおかぬ
   亀の腕には骨がある

 
 なんのために、何を、どのように、書くこうとしているのか。
 それを必死に考えることが、とりあえずの文章の燃料になる、と筆者は思っている。
 亀の手紙には、この3点がつくされている。

◇ なんのために(目的、動機、用途)
◇ なにを (文章の中心思想)
◇ どのように(語り口、文章形式:フォーム、文体)

 練り上げられ、鍛えあげられた短文、文章の中心思想こそ、文章の燃料にほかならない。

 では語り口はどうするのか。
 あんまりこだわらない方がいい。
 若い世代では「おもしろいこと、新しいことなど、この世にそうたくさんあるわけがない。だから内容より語り口、素材より料理が大事----」という考え方に人気があるようだが、中心思想をじっくり練り上げれば、語り口の糸口はひとりでに見つかるのではないだろうか。







 【習文:目次】 



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