2010年1月3日日曜日

: 海のシベリア

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● 1986/06



 欧露のある時期までは、その東限はウラル山脈までだった。
 16世紀末から、ロシアの国土は東方に大きく膨れあがった。
 シベリアという大地を獲てしまったことが、ロシアにとって幸福であったかどうかは、わかりにくい。
 東方に広大すぎる未開の領土を得たことは、国家の存立にまで影響するほどになった。
 それまでのロシアとは、シベリアの獲得によって、力学構造が変わったということがいえる。

 帝政時代、シベリアの軍隊、役人、毛皮採集業者はたえず飢えていた。
 とくに穀物と野菜不足に悩まされ続けていた。
 壊血病がシベリア病というべきものだった。
 こういう病的な状態の中で、「日本の発見」こそ、この難題に曙光をもたらすものでなくして何であっただろう。
 ロシアは昂奮した。
 シベリアにおける食糧問題は解決する、とロシアの政治家たちはよろこんだ。
 ロシアは日本に接近したかった。
 しかし、日本は鎖国しているという。
 どうすれば、日本と交渉できるか。
 幸いなことに、船乗りたちが漂流してくる。
 これを優遇した。
 船乗りを保護し、彼らによって日本語と日本事情を研究し、かれらを優遇することで、日本との交渉の道が開ける。
 そう思い、ロシアの夢は膨らんだ。
 シベリアの現地で獲れた毛皮を、地理的に最も近い文明国である江戸期日本国に売り、代わりに食糧(とくに穀物)を得られれば、この交易は双方に幸福を生み出すものではないか。
 これは、帝政ロシアにとって、歴世の課題になった。

 毛皮。
 日本における毛皮および毛織物の需要のなさについては、それまでの日本史は二度経験している。
 最初の経験は、7世紀末の世界にささやかに成立して文化を成熟させつつ2百数十年続いて消滅した渤海国(698---926)からの働きかけによる。
 渤海の狙いは貿易で、日本から絹布や麻布を求め、渤海からは主として黒テンやヒグマの毛皮などをもってきた。
 これらの毛皮は、はじめの間こそ貴族の子どもっぽい好奇心を曳いたが、やがて需要の気分が衰弱した。
 当時の日本人に毛皮の用い方がわからなかった。
 二度目の例は、17世紀初頭である。
 英国の東インド会社が対日貿易のために派遣したリチャード・コックスが日本異上陸するのは1613年で、大阪冬の陣の前年のことだった。
 が、滞日11年で日本を去ることになる。
 大量に運んできた英国製毛織物を日本に売りつけようとしたのである。
 当時の日本の服装、織物の質感、それを含めた慣習と美意識は、毛織物とはべつの系列のものだった。
 当時から明治維新成立までの日本人の衣料生活には毛皮も毛織物もほとんど入っておらず、わずかに武士の陣羽織にラシャが使われ程度であった。
 「ラシャはいかがです」
 コックスは言い歩いた。
 どの日本人も当惑した。

 シベリアの食糧問題は、ロシアにとって恒常的な難問題であった。
 ロシアは海の国へと発展していった。
 商船隊は今日でもなを成熟しているとはいえないが、海軍の方は着実に成長した。
 その成長ぶりは、日本の江戸後期、3度も欧露から極東への世界周航を行うほどに華やかであった。
 ここで思わねばならないことは、この三大世界周航の目標が、三度とも日本だったことである。
 三度とも、シベリア問題が基調となっていた。
 ロシアにとってのシベリア問題は、球の投げ方によっては、そのまま対日問題になる。
 日本にとってのシベリアは、冬の寒気団の発生地というだけで、なんのかかわりもない。
 いわば、シベリア問題の中での「日本」は、ロシアの一方的な思いいれで、日本としては呆然とするほどの「よそごと」として在り続けてきたのである。




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