2010年1月20日水曜日

: ポルノグラフイーの帝王、ピサヌス・フラクシ

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● 1992/10[1992/09]



 1877年3月30日、ロンドンのある印刷所から私家版の一冊の本が出版された。
 部数は250部である。
 およそ2年間にわたって、この印刷所はこの原稿にかかりきりであった。
 この出版は困難をきわめた。
 出版所の規模は小さかったし、本文の内容は複雑かつ専門的で、おまけに数ヶ国語で書かれていたから、校正者たちにはどこに間違いがあるのかわからなかった。
 また、組版にあたった植字工も一カ国語しかしらなかった。
 その結果、著者自身が何度も校正版に目を通すことになったが、その作業は綿密を極めたことは、巻末に添えられた7ページにわたる正誤表にも現れている。

 この本のタイトルは
 『インデクス・リボルム・プロヒビトルム(禁書目録・珍書、奇書に関する書誌学的・図像学的・批評的ノート)』
 という。
 体裁は大きな四つ折本で、淡い色のついた重い紙を使っている(重さは4ポンドにもなる)。
 序文が16ページ、436ページの本文、38ページの参考文献、56ページの索引から成り立っており、補遺(アデイション)などを含めると総ページ数は621ページに達している。

 『インデクス・リボルム・プロヒビトルム』---このタイトルは言うまでもなくローマ・カトリックも検閲目録の名前をもじったものである---は、ポルノグラフィーと性関係文書に関する英語で書かれた初めての書誌である。
 だがこの『インデクス』はある全体の一部にすぎなかった。
 1879年には第二巻『セントウリア・リボルムアプスコンデイトルム(秘本の一世紀)』が、
 1885年には第三巻『カテナ・リボルム・たせんどルム(秘本シリーズ)が出版され、
ここにピサヌス・フラクシの計画が完成した。
 この3部作の書誌は、英語におけるこの種のものとして最初もものであるばかりでなく、疑いもなくもっとも重要なものであり、おそらくどの言語で書かれたものの中でもっとも重要なものである。

 この分野でこの書以後に出版されたものは、すべてこれを土台としている。
 参照するか、直接引用するか、全くの種本とするか、手段はいろいろあるが、ポルノグラフィーにまつわる伝説や噂や、広汎にひろがっている空想などの大半は、元をたどっていくと、鎖文字の不思議な連鎖のように、このピアヌス・フラクシの著作に行き着くのである。
 これほど影響が大きかったのは、著者の知識の該博さや著作の網羅性ということもあるが、そればかりではなく、この著作が書誌という形をとっていたことにもよる。
 この3部作は単にタイトルと発行年月日、エデイションなどをリストにして載せただけではなかった。
 項目のほとんどすべてに著者は内容の要約を加え、自在に引用し、注釈し、自分の観点から批判し、関連のありそうな情報を披瀝しているのだが、その知識たるや恐るべきものであった。

 したがってこの3部作を二次資料とみなすことはできない。
 それらは社会史と道徳史の様々な問題点に触れた、興味の尽きない一次資料なのである。
 さらにこの3部作は富裕な愛書家、ポルノグラフィー収集家たる一人の人間の独特な精神に我々を導いてもくれる。
 
 「ピサヌス・フラクシ」とは「ヘンリー・スペンサー・アシュビー」の偽名である。
 アシュビーは1834年ロンドンに生まれ、『大英人名事典』によれば、若くして「マンチャエスターの大商店コープステイク商会に勤め、----長年そこの仕事であちこちに旅行した」という。
 1860年代の終わり頃までにアシュビーは「かなり財を築いていた」ので、それ以後、余暇は「旅行と書誌作成と書物収集」とに没頭した。
 広範囲にわたり、よく分類されたポルノグラフィー関係文書のコレクションは何処から見ても、かって一人の私人の手によって集められたものの中で、質量とも最高のものである。

 アシュビーは1900年に死んだが、このとき「15,299冊」に及ぶ稀覯書が大英図書館に遺贈された。
 フランスの資料によれば、大英図書館は初めこの遺贈を断ろうとしたそうである。
 しかしアシュビーは、大英図書館がポルノ関係文書を受け入れてくれることを条件に、『ドン・キホーテ』のすべてのエデイションと翻訳書のコレクションを遺贈することとしたために、大英図書館はこの受け入れに同意したのである。
 今もこのコレクションはそのまま大英図書館に残っているはずである。






 【習文:目次】 



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