2010年1月14日木曜日
: 「透明文章」の怪
● 1984/04
『
「透明度の高い文章ほど名文である」
という常識がある。
「常識」というくらいだから、根強く支持されている。
この常識の、理論的支えとなっているのは「言語=道具」説である。
たとえば、朝日新聞の元文芸部長で、「社説」や「天声人語」の執筆者でもあった能戸清司は、『文章はどう書くか』(昭和55年、kkベストセラーズ)という文章入門書の巻末を次のように結んでいる。
「
最高の文章というのは、文章を感じさせずに、筆者のいおうとしている内容がずばりそのまま相手に伝わるようなものであろう。
「文章がうまいな」
と、文章の存在を感じさせるうちは、まだ最高とはいえない。
」
川端康成が志賀直哉の『城の崎にて』を引き合いに出して、
「作者から独立しているこういう文章こそが名文である」
と、述べている。
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志賀・川端から野間宏まで、「透明度の高い文章ほど名文である」説は、本邦の文章感の本流をなしている。
波多野完治は文章心理学の提唱者として、「日本の近代的な文体論を拓いた功績者」(中村明)のうちに数えられているが、波多野は昭和28年にこう述べている。
「
文章は果たして、文章そのものを意識しないようになったとき、はじめて名文なのであろうか。
文章が全面へ出てきているのが名文でないことは、いうまでもない。
しかし、ある一つの事柄がまさに文章を通じて語られる、という意識をもちつつ読まれることは名文の真の資格ではなかろうか
」
(『文章心理学入門』)
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つづいて、この文章が読者諸賢のお目にとまる自分には放送が済んでしまっているが、日本テレビ系列「24時間テレビ 愛は地球を救う 4」(昭和56年8月22日)の企画書を入手したので、このパンフレットから企画趣旨の部分を引用させていただく。
「
テーマは「愛」です。
あなたの「愛」です。
その愛に、地球の将来を賭けてみよう、という提案です。
いま、地球の年齢46億歳ですが、あらゆる「種」はそれに較べれば一瞬の生を享受して絶滅していきます。
恐竜は7,500万年前に突然絶滅しました。
人類も現在40億人の人口をかかえ、30年毎に倍増しています。
地球では200億人は生存できないといわれています。
その限界に達するのは、そう遠い未来のことではありません。
その間に人類のとるであろう選択は2つしかありません。
1つは偏見と差別に満ちた19世紀以来の勢力のしのぎ合いです。
もう1つはとぼしきを分かち合い、人種・性別・階層などで差別しない理性的な人類福祉社会です。
前者は、究極的にエネルギーや資源の浪費を招き、人類のすみにくさを加速度的に増していきます。
とすればわたしたちが恐竜にならないですむ方法は、連帯しかありません。
そこでこの番組は、現代の魔法の鏡テレビを使って、地球の自画像を一日みつめてみようという企画です。
生き延びるための、「地球人必見! テレビ百科事典」といったところです。
そして銀河系の小さな蒼い星に過ぎないこの地球のかすかな生命が、せめて心を寄せ合って生きていこうというお互いのブロックサインを「24時間チャリテイー」という形で提案したいのです。
」
「修辞」とは読み手に何らかの関心を呼び起こそうという技術だから(とまでいかなくとも、意欲であることにまちがいない)、その部分では一瞬でも読み手を立ち止まらせなくてはならない。
当然、そこは不透明にならざるを得ないのだ。
前にも述べたように、不透明な部分が読み手に「その先を知りたい」という欲望を起こさせ、その欲望を次々に充足させて、読み手を前へ前へと引っ張っていく。
したがって、
「修辞=まもなく解決される不透明さ」とおくと、
「修辞は文の宿命である」という命題は、同時に「不透明は文の宿命である」とも代換されるのである。
番組企画書だが、これはより「芸術文」的である。
その証拠に、この文では一層活発に修辞術がはたらいている。
「一瞬の生」は誇張法である。
「現代の魔法の鏡」はテレビの、「地球人」は人類の、「ブロックサイン」は表明するということの、それぞれの隠喩である。
また、「銀河系の小さな蒼い星」は代称だ(ケニング:一つの名詞を複合語または語群で隠喩的に表現する技巧)。
この企画文の前半は対句的構成をとっており、後半では漸層法(力強い文句を次々に重ねて文調を高めていく修辞法)が目立つ。
このように実用文へも、それとは知らぬうちに修辞術の軍勢が大挙して紛れ込んでいるのである。
「銀河系の小さな蒼い星」という句に、微少の立ち竦み(すなわち透明度はぐんと落ち)、すぐに「あ、地球のことか」と謎解きをし、言葉や文を実感しつつ小さな快感を覚え、「そうか、地球は小さな星なんだな、大事にしなくては」と思うこと、こういう小さな、しかし素速い脳の働きが、文を読む、ということなのである。
実用文は文章意識を伴わない文章でなければならない、などと軽々しく提言してはならない。
谷崎読本を筆頭に、たいていの文章教科書が、「名文中の名文」として賞賛を惜しまぬ『城の崎にて』は、やはり
「読む側に文章というものの存在を感じさせないで、筆者のいわんとする内容だけがじかに伝わってくる」
名文なのだろうか。
「
或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。
足は腹の下にちぢこまって、触覚はダラシなく顔へたれ下がって了つた。
他の蜂は一向冷淡だった。
巣の出入りに忙しくその脇を這ひまわるが全く拘泥する様子はなかった。
忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを興へた。
その脇に一疋、朝も昼も夕も見る度に一つ所に全く動かずに仰向きに転がっているのを見ると、それは又如何にも死んだものという感じを興へるのだ。
それは三日程その儘になっていた。
それを見ていると如何にも静かな感じを興へた。
淋しかった。
他の蜂が皆巣に入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。
然しそれは如何にも静かだった。
」
強烈に「文章」を感じる。
難解な抽象語を一切使わない、語彙を基礎語に限る、比喩や色彩語はなるべく用いない、装飾を加えない、文の構造を単純にする、しょしてそれを積み重ねる----、こういった自己規制を厳守しつつ文を整えていくこと、これが文章意識でないとしたら、一体、何を指して文章意識と言えばよいのか。
さらに引用の300余文字のうちに、
「如何にも」が4回、
「それは」「感じを興へ」がそれぞれ3回、
「静か」「忙しく」「淋しかった」「全く」が各2回、
そして「見る」にいたっては5回も繰り返されているのだ。
これはくどい。
芥川(龍之介)よりもたれる。
ただし、この同語反復によって感傷詩の律動が起ころうとしている。
相当な文章意識だ。
もっとも注目してよいのは、底に流れる修辞法の逞しさである。
ここでは接続語を抑えて文意を高める技法、連辞(等位接続詞)省略が全体を支配している。
読者は、文と分の間に連辞がないので、一回ごとに文と文の隙間に落っこちてしまうのだ。
読者にこれほど強い抵抗を示す文体があっただろうか。
志賀直哉の文章を指して「反修辞学的な名文」(吉田精一)とほめるのが礼儀とされているらしいが、とんでもない、この作家は「レトリックの名人」なのである。
じつに修辞法の大親玉だ。
芥川に負けない技巧を持ち合わせている。
』
【習文:目次】
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