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● 1992/02[1991/11]
『
崇峻天皇の後に位についたのが推古天皇だが、この方は歴史記述に残る、東アジアでのはじめての「女帝」である。
韓国にも中国にも、この前には女性の王はいない。
韓国の新羅に女性の王が出現するのは、これより半世紀後であり、中国では長い歴史の中で女性皇帝はただ一人、唐代の則天武后だけであり、推古天皇より百年近くも後になる。
このとき、天皇家に大天才が現れた。
聖徳太子である。
太子は伯母にあたる推古天皇の摂政として、政治的発言権を確保するとともに、仏教と天皇制を両立させる道を作りだす。
いわゆる「神仏儒習合」の思想である。
太子は、「神道を幹とし、仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて現実的繁栄を達成する」という詭弁的論理を編み出し、一を加えても「一を加えても、他を否定することはない」と主張したのだ。
これは当時の多くの日本人が悩んでいた問題に対する適切かつ現実的回答であった。
「
神々は敬わなければならない。
敬ってなを祟るのが日本の神々である。
その祟りを鎮めるものが仏である。
だから、われわれは仏も拝まなければならない。
」
神々への恐怖を強調することにより、これを廃することを抑え、その半面で慈愛を説く仏の一面を強調することで、その信仰をも肯定したのである。
これは、宗教を体系的にまるで考えない便宜主義である。
およそ世界にこれほど、独創的現実的な思想を発見したものは他に例をみない。
聖徳太子の「習合思想」の凄まじさは、一神教の仏教と多神教の神道とを、それぞれ別の宗教として、その体系のままで同時に信仰することを許容し推奨した点にある。
宗教論理的には詭弁としかいいようがない。
が、現実的な政治効果は絶大であった。
おそらく当時の日本人の圧倒的多数は、一方において新しい仏教とそれがともなってくる技術とに憧れていたであろう。
だがその反面では、父母の信じた祖先崇拝も捨てたくはなかった。
こういう二律背反に悩んでいた人々にとって、理論的な不整合などはさして妨げにはならなかった。
このため、聖徳太子の唱えた「神仏儒習合」思想はたちまちに広まったのである。
二つの宗教がともに国家公認として、一人の人間が二つを同時に信仰する道が開かれた。
まさに「宗教における堕落は、政治における飛躍」だったのである。
この「神仏儒習合」思想が普及した結果、日本には深刻な宗教対立はなくなる。
同時に厳格な宗教論理も信仰心もなくなった。
その意味で聖徳太子は、世界ではじめて「宗教からの自由」を表現した思想家だったといえる。
これが、後の日本に与えた精神的影響は、実に重大である。
複数の宗教を同時に信仰できるとなれば、各宗教のなかから都合のよい部分だけを取り出す「いいとこどり」の慣習が生まれ、「絶対不可侵なる神の教えと掟」は存在しなくなってしまう。
このことが、文字を知ったのと同じくらい早く起こったために、神道はついぞ聖典や戒律を定める必要に迫られなかった。
そればかりでなく、外来の仏教でさえも、この国に入ると急速に聖典と戒律を失い、「いいとこどり」の対象になってしまった。
つまり体系的な形での絶対的正義感がこの国では育たなかったのである。
日本人の考える宗教との差とは、宗教儀式の違いに過ぎない。
宗教の違いとは、本質的な倫理感の違い、つまり「何が正しいのか」という点での対立である。
厳密な意味での宗教とは、何が正しいか何が悪いかを客観的事実や利害得失によってではなく、神の教えた聖典と戒律によって定めたものである。
したがって信仰とは、それを議論するまでもなく、「信じ守る」ことに他ならない。
そうした宗教信仰の」慣習を持つ人々は、他の事柄に関しても、とかく「絶対的正義」をもちたがる。
それがなければ不安であり、言動の基準を失ってしまうような気がするらしい。
ところが複数の宗教を同時に信仰する習慣を持った日本人には、唯一絶対神の教えも、不変の掟もない。
結局、頼るべきものは「みんなの意見」、つまり、そのときその場にいる人たちの最有力な多数が正しいと主張することだ。
』
【習文:目次】
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