2010年2月24日水曜日

: デフレ

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● 2006/04



 バブル崩壊後、10年以上にわたるデフレが終焉に向かっている。
 一般にデフレとは、
  「物価が2年以上にわたって、持続的に下落する
 状況を指す。
 単にパソコンや携帯電話、アパレル、食品といった個別商品の値下がりだけでなく、物価全般が下落していくのが、デフレである。
 物価をGDPデフレーターで見るのか、消費者物価指数(CPI)でみるかは議論があるが、日本の場合はいずれも数年にわたって下落し続けている。
 将来にわたってモノの値段や賃金が下がっていくというデフレスパイラルの恐怖は、経済面では、しばしば私たち生活者に「絶望」をもたらすという意味で、まさに「死に至る病」といえる。
 図表1-7はこうしたデフレの広がりを見たものである。



 いかに1990年代の日本経済がデフレという死に至る病におかされていたかが見てとれる。
 ちなみに影部は、前年と比べてデフレが悪化したとみられる年である。

 特に1990年代のデフレが深刻化した背景には、バブル崩壊に伴う資産価値の値下がりがある。
 土地は1990年のピーク時に「2,365兆円」から、2003年には「1,299兆円」と実に「1,066兆円」もへっている。
 株式の時価総額も1989年の「889兆円」から2001年には「374兆円」と、「515兆円」も減少している。
 土地と株をあわせると「1,600兆円弱」も「ストック・デフレ(資産デフレ)」が生じたことになる。

 過剰設備、過剰雇用、過剰債務の「3つの過剰」をいかに解消するかが日本経済、企業再生にとっての重要課題であった。
 2003年になると日本経済は徐々に回復軌道に乗ってきた。
 日本経済の病根といわれた「3つの過剰」問題も2004年にはほぼ解消し、景気は自力回復軌道に乗る。
 2005年には原油高騰の影響もあって、消費者物価も月次ペースで前年比プラス基調に転じるなど、10年以上にわたるデフレもようやく終焉に近づいてきた。




[◇]
 2010年、日本のデフレ&安定は当たり前のことになっており、ということは15年以上続いている。
 もうこうなると、デフレ安定が経済の「スタンダード:基準」といってもいい。
 この目に見える事実について、学として論じたものにまだ出会っていない。
 デフレ安定を軸に据えた経済学は出来ていない。
 デフレは成長を促進するインフレの対極にある「悪いヤツ」とだけ受け止められている。
 ただ、「危険、危険」「コワイ、コワイ」というだけ。
 一種のトラウマだな。
 そりゃ、インフレ側からみれば危険だろう。 
 そのベースにあるのは資本主義創世記に作られた遥か昔の近代経済学のセオリー。
 言い換えると「豊かになるための経済学」が近代経済学。
 もうそろそろこの呪縛から逃れて、デフレ・スタンダードを脱近代経済学の新しい経済と位置づけ、「新時代経済学」がつくられていいようだが。
 もちろん、それが適用できるケースは最先端国家の日本しかないが。
 まあ、日本の学者には無理だろう。

 「100円ショップ=デフレ」
 「ユニクロ=デフレ」

 100円ショップが巷から消え去ることを今の日本で想像できるのだろうか。
 「できない」としたら、デフレはまだまだ続き、次第に強固に基準化されていくということになるだろう。
 これからは、デフレ安定が経済のスタンダードとして受け入れられていく可能は非常に大きいのだが。
 「豊かになったあとの経済学」が論じられていいはずだ。
 でもいまだに「経済成長」とか「景気」とかを口に泡して論じている。
 常識的に考えて経済成長なるものが未来永劫続くわけでもあるまいに。
  「成長が終わったらどうしたらいいのか
 ちょっとは考えてみなくちゃいけないのではないのだろうか。
 でもまあ、そういうことは経済学の教科書には書いていないだろうな。
 教科書に書いていないものな「ないとみなす」、学んでいないからしかたがないか。

 いまどきの言葉でいえば、経済成長と景気をメインに据える「肉食型資本主義」から、安定と平常生活の「草食型資本主義」への進化ということだろうか。




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2010年2月23日火曜日

: 備蓄

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● 2006/04



 日本経済は、1970年代の石油ショック時と比べ、原油の高騰に対して強くなっている。
 石油危機を契機に、日本経済は重化学工業化による経済成長から組立加工型の経済成長へと、「重厚長大」から「軽薄短小」へと、省エネ・省資源化を進め、その後もしっかりとその体型を維持しているのがその理由である。
 例えば、日本の原油輸入量は、1980年の「2億5400万キロリットル」から現在までほとんど増えていない。
 この間、実質GDPは「240兆円」から「500兆円」へと2倍になっている。
 また円ドル為替相場も、過去25年で240円から120円へと2倍にきり上がっている。
 それだけ安く原油を買えるようになっているわけである。
 また、171日分の備蓄もある。
 消費者の不安心理に対しても、あらゆる情報が公開されているため、消費者がパニック買いに走る状況にはない。
 日本経済は、世界のどの国よりも省エネ・省資源の優等生になったのである。




 IEAはOECD諸国に対して「91日分」の備蓄を韓国している。
 アメリカは、民間企業に備蓄義務はないが、エネルギー省によるSPR(戦略的石油備蓄)が約7億バレルある。
 これは、年間消費量の7カ月分に相当する。
 イギリスは142日、ドイツは90日、フランスは95日分である。
 日本の場合は、石油備蓄法に基づき90日分の石油備蓄を策定、国家民間備蓄を義務づけており、それがあわせて171日分になっている。



 アジアでは、国家備蓄制度があるのは韓国だけであり、その他の諸国は民間の石油会社による在庫が備蓄を兼ねている状況である(その後、中国は2005年末より、石油備蓄制度をスタートさせている)。
 年間ベースでみた備蓄日数は20日~40日程度で、その性格も運転在庫が大半となっている。
 国家備蓄は財政面での負担を考えると難しい。

 中国はもとより世界経済は、「高い原油価格を前提とした新しい成長モデル」を構築しなければ、もはや持続不可能になっている。
 このような認識で一致すれば対応すべきことは明らかである。
①.原油生産能力の拡大に向けた上流部門への効率的な投資の拡大
②.代替エネルギーの開発
③.省エネ社会や環境に優しい社会構築にむけての研究開発・設備投資および製品・サービス投資の促進である。

 原油価格が、2倍、3倍のレベルで高止まるということは、企業にとっては大変なコストアップであるが、見方によっては様々な代替エネルギーの開発が行われ、エネルギー選択肢社会が訪れるということである。
 原油価格が40ドルを超えて長期的に高止まるとすると、カナダのタールサンド(砂岩質油層)、ベネゼイラのオリノコ河に眠る超重質油、などの非在来型資源の開発が可能になる。
 さらに、天然ガス、原子力、GTL(ガス・ツー・リキッド:天然ガスや石炭、重質油などから一酸化炭素を水素に転換し、触媒で分子構造を組み替えてつくった環境に優しい軽油)、DME(ジ・メチル・エーテル:天然ガスや石炭、重質油から合成する無職透明のガス)、バイオエタノール(サトウキビやトウモロコシなどの植物を発酵させて製造)、燃料電池(水素と酸素の反応で電気を取り出す)などの代替燃料の開発にも弾みがつく。









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: オイルピーク

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● 2006/04



 原油価格が高騰する中で、にわかに話題にのぼるようになったのが「オイルピーク」、すなわち「石油資源枯渇説」だ。
 もともとは、シェル石油の地質学者であるM・K・ハッバード(1903~1989)が、1956年に唱えたものである。
 彼は資源埋蔵量と生産量との関係について、
「毎年の生産量は、資源の約半分を掘りつくすと、急速に減少に転じ、それをグラフ化すると(正規分布に近い)釣鐘状のカーブとなる」
 というものである。
 そしてその際、資源価格は生産がピークに近づくと高騰するものだというものだ。

 彼は1956年に、この関係をアメリカの石油資源に当てはめ、当時の埋蔵量を「2,000億バレル」とした場合、1970年代の初めにピークを迎えると予測した。
 当時、石油業界ではほとんど相手にされなかったが、実際にアメリカの原油生産は1971年にピークを迎え、その後は減少傾向をたどった。
 このピークオイル説は、賛否両論が飛び交いつつも継承され、1988年には元BP(ブリテッシュ・ペトロリアム:ブリテッシュ石油)の地質学者コリン・キャンベルが、地域ごとの原油埋蔵量と生産量を積み上げることで、世界の原油生産のピークを「2010年」の手前と予測した。
 この時期には石油が高騰するであろうというシナリオだった。



 実際、原油価格は2003年に入ると、旺盛な需要に対する供給不安から上昇基調を強め、2005年には70ドルの市場最高値をつけたことから、市場では再び注目されるようになった(註:2008年には100ドルを突破)。

 オイルメジャーズ(国際石油資本)の石油専門家は、このオイルピーク説には否定的である。
 石油の埋蔵量は、新規巨大油田の発見によるだけでなく、他にも原油価格の上昇や技術革新によっても増加するとためだというものである。
 いわゆる「埋蔵量成長」である。

 かって北海油田の生産が1990年台前半でピークアウトすると予測された。
 しかし、実際には北海油田の生産は1990年代に入っても拡大を続けた。
 これは、探鉱、開発、生産という上流部門で、
①.新たに発見する
②.回収率を上げる
③.コストを下げる
 という3つの面からの技術革新が進んだため、埋蔵量が成長したためである。

 ①の「新たに発見する」では
a].三次元地震探査が導入された。
 人工的に起こした地震の波動に対してコンピュータ・グラフィックスによる地層解析を行うことで、油田を発見する確立が飛躍的に上がった。
b].水平掘り(傾斜掘り)の発達。
 従来なら井戸は垂直に掘られるのが普通だが、斜めに掘ることで、それまで採算に合わなかった大きな油層の周辺にある小さな油層からの生産も可能になった。
 例えば、イギリスのシェトランド島西部やノルウエイ海、バレンツ海などの海底油田の開発では、陸上より海底油田に向けて傾斜して掘ることで生産のフロンテイアが新潮した。

 ②の「回収率を上げる」では
 通常、原油を自噴状態で生産する場合は、埋蔵量のうち「30%」程度の回収率にとどまっている。
 これを「一次回収」という。
 しかし、「増進回収法:ERP Enhanced Oil Recoverry」で、油層中に水やガスなどの液体を注入することで、回収率を「40%~60%」に高めることができるようになった。
 これを、「二次回収」あるいは「三次回収」という。

 ③の「コストを下げる」では
 軽くて強い新材料や、海底に脚を立てない「浮遊生産システム」の導入などでコスト削減が可能になった。

 興味深いことは、これらの技術革新は1980年代後半、原油価格が30ドル台から10ドル前後に急落する過程で進んだことである。

 埋蔵量の概念を整理しておこう。
 埋蔵量と言った場合には、生産を開始する以前に油層に存在していた原油の総量を示す「原始埋蔵量」と、その時点で経済的・技術的条件下で生産可能な石油資源量を示す「可採埋蔵量」とに大別される。
 また、さらに可採埋蔵量とそれまでに生産された累積生産量をあわせたものが「究極可採埋蔵量」となる。
 ちなみに究極可採埋蔵量は、石油が「約2兆バレル」、天然ガスが「204兆m3」、石炭が「9.9兆トン」である。
 BPは毎年、主要産油国の原油生産量と可採埋蔵量を発表している。
 


 2004年末の世界の原油可採埋蔵量は「1兆1886億バレル」。
 2003年末からは「409億バレル」拡大(埋蔵量成長)している。
 また、オイル&ガス・ジャーナルによると、1993年の石油埋蔵量は「9,970億バレル」であり、この11年間で「1,916バレル」、年平均「174億バレル」の埋蔵量成長があった計算になる。
 この量を、どうのように評価したらよいのだろうか。

 BP統計によると、2004年の世界の原油生産量は日量「8,026万バレル」である。
 これは年間で「293億バレル」になる。
 可採埋蔵量は上記のように「1兆1,886億バレル」であるから、41年分の埋蔵量が確認されていることになる。
 2000年以降、世界の石油需要は年率で2%前後のペースで増加している。
 2006年の石油需要は日量「8,500万バレル」、年間で「310億バレル」となる。
 2006年に41年分の耐用年数を維持するには、2004年のから年間で「412億バレル」の埋蔵量を成長させ、オイルピークのタイミングを延ばすことが必要である。
 実際にはどうだろうか。
 2004年は「409億バレル」の埋蔵量成長があったが、果たして今後も埋蔵量成長は可能であろうか。
 1990年以降、巨大油田の発見はなされていない。
 よって埋蔵量成長の内容はもっぱら「回収率向上」によっている。
 オイルメジャーは原油の高騰にもかかわらず、上流での原油開発投資には慎重である。
 過去の低原油時代を知っているメジャーズにとって、巨額の資金と長期間を要する開発投資はリスクが大きすぎるためである。
 メジャーズの石油収入は増えているが、開発投資に向けるよりは、むしろ増配や自社株買いに向ける方向に動いている。

 よって、旺盛な石油需要に見合っての供給能力は伸びないということになれば、原油市場では、どんな高値が出てもおかしくはないのである。









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★ 資源インフレ:はじめに:柴田明夫


● 2006/04



 現在、国際資源市場で起こっている価格の上昇は、従来の循環的なものではなく、これまでの価格の2倍、3倍、あるいはそれ以上という非連続的な変化である。
 突如として出現した「高い資源価格時代」は、さながら物体が熱せられると分子活動が活発になるように、資源をめぐり国家、企業、投機マネー、技術開発など様々な動きを活発化させずにはいられない。
 これが、従来の延長線上ではとらえられない均衡点を変えるような非連続的変化を、国際資源市場にもたらしているのだ。
 この非連続的変化をいち早く察知し、果敢に先手を打っているのが、アメリカと中国である。
 資源が持続的経済成長の最大の制約要因となりかねないという判断から、国策として国際資源の獲得にに向かっているのが中国である。
 資源価格の長期上昇を見越して「安い段階での資源手当て」に走っているのがアメリカである。

 特に米国は、1990年代に世界経済をリードした金融資本主義やIT(情報技術)産業に代わる21世紀型成長モデルが、中国などBRICsにおける新たな「モノ作り」に変わったと認識し、そして、それが膨大な資源需要を喚起するとみているフシがある。

 2006年に入って相次いで顕在化した地政学的リスクは、資源争奪をめぐる不均衡が表面化したものといえる。
 それが最も先鋭化して現れているのが原油市場である。
 すなわち、原油価格は主に以下の4つの地政学的リスクの噴出により、上振れリスクが高まっている。
①.イラク情勢の泥沼化
②.ナイジェリア問題の深刻化
  貧困地帯ニジェールデルタでの石油開発は、貧富の格差を拡大し、民族紛争、武装テロを活発化させている。
③.イランの核開発問題
④.サウジアラビアの危険度上昇
  石油施設を狙った自爆テロは未遂に終わったものの、危惧されていたリスクが現実となった。
  サウド家もイスラム原理主義のテロの対象になっていることが再認識された。

 これまで四半世紀にわたり省エネ・省資源の優等生であった日本経済にとって、高い資源の時代が到来したということは、新たな出番がやってきたといえる。
 資源の高止まりが暗示するのは、これを活用して新たな資源の開発、代替エネルギーの開発、高い資源に対応した「環境配慮型社会システムの構築を行え」、というシグナルでもある。
 資源高騰を「投機マネーによる一過性の現象」と考え、高い資源時代の到来に対して何もしようとしない「無作為」こそが、日本にとっての真のリスクである、と捉えるべきである。





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2010年2月22日月曜日

: 日本語検定試験


● 1992/10



 チャールズ皇太子と私はケンブリッジ大学の同窓生になった。
 私はロシア語とフランス語を、彼は考古学と人類学を専攻していた。
 両方とも授業は同じ教室を使っていた。
 講義が終わって外に出ようとしたら、次の講義を聴く未来のイギリス国王が教室の前でじっと待っていた。
 お互いにニコッと笑って、「ハロー」と言葉を交わしたもんだ。
 数週間後、ケンブリッジの町中で猛然と自転車を漕いでいたら、チャールズ皇太子が道路を横切ろうとした。
 遠くから来る私を見て立ち止まり、走りすぎるのを待っていてくれた。
 それ以来、皇太子には会ったことはない。

 私は日本語検定一級の試験に落第した「イギリス人第一号」という、あまり自慢にならない経歴を持っている。
 試験問題は日本人の作成になる本格派で、外国の大学教授が作る問題よりかなり程度が高い。
 1986年のとある日曜日、雨の降りしきる憂鬱な日曜日に、イギリス北東部のシェフィールドで初めての試験が行われた。
 が、受験者は「私一人」しかいなかったのである。
 シェフィールド大学にはイギリス随一の「日本語学科」がある。
 日本語を教えている高校が少ないので、「ここの学生にいきなり一級の試験は難しすぎる」と教授が言っていた。
 果たせるかな、私にも難しすぎたのである。

 向こう見ずの私は、2年後に東京で再度挑戦した。
 問題が難しいのは前回と同様だが、雰囲気はまったく違っている。
 ロンドンから乗った列車はガラ空きだったが、今回の会場である青山学院大学に向かう地下鉄は、身なりも、肌の色も、顔つきも千差万別の外人で溢れていた。
 貸切バスでくる人もいた。
 東京での受験者の数が地球の反対側より多いのは当然である。
 何人かの受験者と話してみると、いわゆる太平洋時代の幕が開き、日本語がアジアのエリートの言葉になっていることがすぐにわかった。
 英語圏の大学は、長年にわたって発展途上国の学生が政治や経済で身を立てるパスポートだったが、いまやアジアの学生の多くは日本を向いている。

 さて試験の中身である。
 案内書によれば、約2千字の漢字と、1万語の単語を習得した人が対象とされている。
 問題の多くは、文章を読んで正しい答えを選ぶ方式である。
 日本人はよく英語のスペリングがややこしいと文句をつけるが、26文字のアルファベットなど、2千の漢字と比べれば問題にならない。
 まして、さらに平仮名とカタカナまであるのだ。
 しかし、漢字には便利なところもある。
 音声でなく、意味を表すから、覚えなければならない1万語のうち、かなりの単語はほぼ正確に意味を類推できる。

 奇妙なことに、丸一日の試験を通じて文字は一字も書かなかった。
 すべて4つの回答の中から、正しい答えを選ぶ仕組みである。
 日本ではこれが一般的だと聞いていたが、試験とは何がかけるかを試す制度という国で育った人間にとっては、世論調査に協力を求められたような気分である。
 ひょっとしてテレホンカードでもくれるのかな、と思ったほどである。

「気にするなよ」
 と、サリー州出身の英語教師が言った。
 彼もマゾ趣味で試験を受けていたのだ。
「〇× なら猿でも25%は正解できるんだ」
 が、心配の種はそこにある。
 私は、それ以下の成績しかとれないかもしれないのだ。

 1989年の1月末、一通の速達が届いた。
 封筒を開けると、「訂正のお願い」と書かれた一枚の紙切れが床に落ちた。
 日付は「昭和64年1月17日」ではなく、「平成元年1月17日」と読み替えてほしいという内容だった。
 昭和天皇は郵便物が発送された十日前に亡くなっていた。
 速達は12月に受験した日本語検定試験の成績通知であり、その成績の部分だけ空けて事前に印刷したものである。
 日本は天皇即位の年から新しい年号に切り替えるという慣習を守っている。
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 さて、元号の話を長々と書くきっかけになったのは、私の成績通知書であった。
 その中身が気になる方のために、一言書き添えておこう。
 日本には昔から試験の合否を桜の花に例える習慣がある。
 サクラが咲けば合格、散れば落第である。
 私の桜は「満開」であった。









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★ 不思議の国の特派員:あとがきに代えて:デビット・パワーズ


● 1992/10



  1980年代に初めて日本に来たとき、以前から日本にいるアメリカ人が話してくれたことがある。

 本を書こうというなら、今のうちに書いてしまうことだ。
 3週間も暮らせば、とりあえず知りたいことは分かる。
 3カ月たつと分からないことが出てくる。
 3年たったら分からないことだらけで、頭の中がゴチャゴチャになってしまう。
 30年近く日本で暮らして、来週80ページの本を出すんだが、中身は白紙同然さ。

 
 4年間日本に滞在して、「さようなら」を言うころになって、この言葉の意味がよく分かるようになった。
 私は日本の企業で働き、日本語を習い、たびたび国内旅行もした。
 それでも頭の中は混沌としている。
 日本のビジネスマンはイタリアやイギリス製の生地で洋服をしたて、その秘書はパリのブランド品で身の周りを飾っている。
 まさに洗練の極致だが、一皮むけば西欧化はごく表面的な現象にすぎない。
 日本も日本人も、ほかの国に較べると極めて異質な価値観に基づいて稿で牛手いるのだ。

 こうした知識と体験を背景に、1987年10月には記者として東京に戻って来た。
 今度の仕事はゴチャゴチャした頭の中を整理して、
  「なぜ、日本がこういう行動をとるのか」
 を伝えることである。
 中身が白紙では済まない。
 それから5年近く----もう一度「さようなら」と言う時期になったが、まだゴチャゴチャは消えていない。
 理解不足というわけではない。
 日本の社会を知れば知るほど、その複雑さが分かってくるのだ。
 日本人はほかの国民と比べると社会への順応力が強いが、国民は1億2千万人もいる。
 個人個人の動きが複雑に絡み合って、社会は絶えず揺れ動き、変貌を続けている。

 この本は、日本の直面する問題について解決の道を模索しているわけではない。
 ましてや日本を「叩こう」という意図などない。
 しかし、私のコメントが何かを考える手がかりとなってくれれば、これびまさる歓びはない。
 完全な社会などあり得ない。
 私の母国である英国も同様で、改善の余地はいくらでもある。
 英国との対比を試みたのは、日本と違ったやり方もあることを伝えたかったからにほかならない。
 この5年間は本当に楽しい体験だった。
 日本はユカイな物語の宝庫である。
 二人揃って百歳の誕生日を迎えた人気キャラクターの「きんさん、ぎんさん」とか、税務署とドロボウが怖くて2億円の大金を竹やぶに捨てた人など、話題は尽きない。

 日本は外国特派員にとって仕事がしにくい国である。
 記者クラブ制度と頑迷な完了には手を焼かされたが、情報の入手が難しいわけではない。
 問題は情報の量と質である。
 日本は情報が多すぎる。
 毎日毎日、毎時毎時、新聞、テレビ、ラジオから情報の洪水が流れ出す。
 行く手にあるものを津波のように飲み込み、過ぎ去った後は、何かが分かるというより、ますます分からなくなる方が多い。
 新聞やテレビの報道は事実を伝えるだけで、意味の解明は読者や視聴者任せになっている。

 外国特派員にとってさらにやっかいな課題は、なぜ日本の社会がほかの民主主義とは違うルールで動いているのか、外国の人たちに説明しなければならないことだ。

 日本についてリポートするのは難しい。
 サハラ砂漠の砂の動きをリポートするようなものだ。
 風で砂丘の位置が変わるように日本も変わりつつある。

 一向に変わらないのは、飛行機を降りたばかりの外国人の言動である。
 36時間前に日本についたばかりの若者と食事をしたことがある。
 日本の話はよく知っていると前置きして、こんなことを言った。

 ニュースに関するかぎり、日本にはたいしたことがないですね。
 ボスニアや旧ソビエトを見てごらんなさい。
 経済畑の人でなければ、日本の出来事に関心をもちませんよ。











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2010年2月21日日曜日

★ 娘と私のアホ旅行:恐怖の挨拶:佐藤愛子

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● 1983/03[1980/11]



 窓の下は右も左も海。
 飛行機は今、南シナ海の上を飛んでいるのである。
 やがて陸地が見える。
 チーフパーサーが来て、それはベトナムだと教えてくれる。
 濃茶の森林がどこまでもつづき、幾筋ものタイシャ色の道がうねっている。
 それだけの風景である。
 ほかに何もない。
 実に赤い土の色だ。
 その土色に異国を感じるというよりは、胸にズンと響くものを覚える。
 血が流れ、人がさまようその地の上を、ノンキに飛んでいるこの贅沢を今更のように思う。

 ふと見るとレストルームのテーブルの上に、誰が読み捨てたか、週刊誌が開かれている。
 何げなく手にとると、見たようなオバハンの写真が出ている。
 よく見ると、私の写真で、
 『旅立ち、佐藤愛子』
 とある。
 今回の旅行についての私の談話が出ている。

 今まで海外に出かけなかったのは要するに私がワガママでケンカっ早いからですよ。
 飛行機とか税関とか、ホテルとか、とにかく気に入らないと、怒り狂うことが多いと思うの。
 おまけに外国語ができないとくると、よけいにハラ立たしいじゃないですか。
 だから帰ってきたら”怒り疲れ”で病に倒れるにちがいないと、6月まで原稿は断ってるほどです。

 何となく憮然たる気持ちで読み終えた。

 さっきからスチュアデス、パーサー、チーフパーサーなどから次々丁重に挨拶されたのは、この週刊誌にに原因があったのだな、とわかった。
 あの挨拶は敬愛の挨拶ではなく、恐怖の挨拶であったのだ!











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2010年2月19日金曜日

: 差のない文明

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● 1995/07



 日本の経済力が増すとともに、他の国の人々から、
  「日本人は顔の見えない民族だ、なにを考えているのかさっぱり分からない」
 といわれますが。これはあたりまえだと思うのです。
 日本は無謀にも世界を相手に実力以上の戦いを挑み、そして敗北して占領されたのです。
 被占領国というものは歴史の常で、でかい顔をしたり、反抗的なパフォーマンスをすると命を失うばかりか亡国の道にさらされます。
 日本は必要に応じて欧米の仮面をかぶったのです。‥‥が。

 西欧の弱肉強食の植民地主義のリーグ戦の行われる中で、日本人が西欧文明に追いつくことにより植民地化を逃れようとした判断力と意思の強さは、正しかったし、東洋の一島国の戦略としては、健気であるし、時代背景を考えると極めて特異で、ユニークで創造的と言ってよいと思います。



 日本人がアイデンテイテイに対して遠慮深く、慎み深い心で関心をもちはじめたのは、一つには経済大国として自身をもちはじめ、敗戦の劣等感から立ち直ったからでしょう。
 もう一つには他国から「顔の見えない日本人」などといわれ、せっかく持ち始めたプライドを傷つけられたせいもあるでしょう。

 気がついたら鉄壁のように見えた巨大な欧米文明の壁を突き抜けてしまっており、前に目標とすべきものがなくなってしまい、視野狭窄の状態に陥ってしまっていた。
 困ったことにその時期に平成大不況に突入してしまい、さらに自信を消失してしまった。
 これはどうしても、足元を見極め、自国の歴史文化に独自性が在るか否かと、はじめて過去を振り返って、慎重に用心深く自国のアイデンテイテイの浮上作戦にとりかかっていかざるを得なくなってしまったのです。

 日本人は島国なのに、他国との文明の差を非常に気にする民族だと思います。
 はじめは中国文明に、次は西欧文明に追いつき、差を縮めることが国民的悲願でした。
 まさに差を縮めることに熱中したのです。
 興味を持つのは、差をなくすことに異常にまで執着する日本人の民族性が、また気づかぬうちに、再び歴史的転回を開始したのではないかと思うことです。
 富める欧米との差を縮めることに費やしたエネルギーが、今度は客に貧しい国を豊かにするために行動を起こしていると思えるのです。
 世界で、富める国は25%、その他の75%は貧しく、飢えに苦しむ国も多いのです。
 実際には、日本国内の円高、人件費の高騰、税制規制を逃れるため、企業や人は積極的に海外に出始めています。
 そのように国外に散らばりはじめた人々が、日本人の習性を発揮し、今度は75%の

貧しい国々を指導し、富める者と貧しき者との「差のない文明」を築くかもしれません。



 日本はODAに出すお金も世界一ですが、環境保護のために世界に出すお金も世界一です。
 公害を抑える科学技術もダントツ世界一の優等生です。
 冷戦以後の混沌の世界の中で、平成不況で傷つけられはしましたが、日本はうっすらと「顔」を表しはじめたと思うのです。
 地球の環境保護立国として世界に貢献していく道です。







 【習文:目次】 



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: Noといわない変身の天才

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● 1995/07



 敗戦・占領・混乱。
 お先真っ暗という時代を我が民族は、半世紀ほど経験している‥。
 あ、飢え死にした者もいたし、ものの価値観もさかさまになってしまった。
 日本的なものは、歴史・伝統を含めてすべて否定された。
 しかもユニークなのは、それを日本人自らが進んでやったということだ。
 オッタマゲタのは占領軍のほうではないかな‥。
 それまでは、世界に名だたる勇猛果敢で、死をもおそれぬサムライ国家だったからな。



 サムライの心はどこへいったかって‥。
 この民族は今世紀の前半で「500年分の戦争」をしてしまったのではないかな‥。
 なにしろ50年ほどの間で、中国・ロシアと戦い、アメリカ・イギリスと戦ったんだから。
 こんな小さな貧しい島国としては、やり過ぎだと思うよ。
 日本人自身も、武士道とかサムライという建前の精神に、がんじがらめになり、方向を見失い他国に侵略するなどの過ちをおかし、疲れ果ててしまったのだろう。



 それにこの民族には、ある独特の自律神経が発達しているため、これからの存立は経済だと考え、よい製品をつくることに熱中してしまった。
 サムライの心とは、人間としての生き方、死に方、戦い方の精神を限界まで突き詰める思想だからね。
 それをそのまま、物をつくる心、職人道に入れ換えてしまったのさ。
 サムライの心から職人の心にチェンジしてつくられた日本製品は売れに売れ、世界のお金持ちになった。
 しかし、お金を持ちつけないヤツが、急にお金持ちになるとロクなことがない。
 成金から高慢に向かうには、さほど時間はかからなかった。
 反省ザルは、反省を忘れればただのサルさ。
 うぬぼれから投機に走りすぎて、墜落したのが平成バブルの経済崩壊の実態だ!。
 かって軍事で行った失敗を、今度は経済で犯してしまったわけだ。









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: 親父とはなにか‥?

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● 1995/07



 かって親父は独立自尊の気概を持ち、それぞれの日本を背負うて歩いていました。
 20世紀をもっともユニークに駆け抜けていった日本の親父たちは今、空の彼方に消えて行くのか。



 親父とはなにか‥? (戦後50年を振り返って)

①.遺伝子の放出者である。
②.製造物責任者であり、家族にメシを食わせねばいけない。
③.その他は、民族固有の伝統とか魂の誇りとか、また今様にいえばアイデンテイテイを子孫に伝えていく任務を背負っていた。
 が、敗戦のためその任務も解かれた。

 現在の親父は①ないし②の務めをしていればよいことになっている。
 たまにハッスルして、ヤマト魂とか祖国愛などとヌカスと、さあ大変!
 規則違反者を見つめる冷ターイ目で見られる。

 近頃は家庭内でも浮き上がっている親父が多く、粗大ゴミなどといわれる。
 親父とは‥‥その存在が、「限りなく軽~イ生きモノ」として生息しているのだ。







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★ 親父の日本:書き終えて


● 1995/07



 「日本」と「親父(おやじ)」というテーマで大人向けの絵本を創作したいという思いは、ずいぶん昔からありました。
 私たち昭和10年前後に生まれた世代には少し変わり者が多く、「沈黙の時代」であると同時に、超スーパースターの多産世代でもあります。
 石原裕次郎、水原弘、長嶋茂雄、大江健三郎などと並べると、それぞれの分野で、戦後の風俗・文化をダイナミックに変えてしまった新鮮で個性的な人々でした。
 また昭和30年代という時代は、日本経済の胎動期で、その後の大繁栄を予兆させるような時代が生んだ大スターで、その時代の新しいタイプの日本人像でした。

 しかし最近、日本の若い人が、何か変わってきたように思うのです。
 野球の野茂英雄、イチロー、相撲の貴乃花などの活躍を見ると、今までの日本人像と少し違うタイプではないかと思うのです。
 もっとも、アメリカ生まれのスポーツ野球と、日本の伝統国技(相撲界も国際化している)という違いはありますが。
 どちらにも、劣等感というものが少しも感じられません。

 私は、「根性」という言葉があまり好きではありません。
 明治開国以来の日本人の国際的劣等感がしみついているように思われるからです。
 野茂、イチロー、貴乃花のタイプの人たちは、一様に国際人たりえるし、同時に日本の顔を代表するアイデンテイテイを併せ持って、新しい日本人のような気がするのです。
 彼らは、
  「この道しか、我に行く道は無し、故に我は行く」
 という独立自尊の気概が感じられるのです。
 もっとも、私の息子と娘と同世代ということで少し贔屓目に見ているかもしれません。

 今後、日本人が戦後の「ルサンチマン」という厚い壁を突破するなら、素晴らしい国際人となるでしょう。
 平成不況は、日本人が迎えた戦後最大の国難です。
 しかし、「災い転じて福となす」の諺の通り、日本人に与えられた大きな試練と受け止め、歯を食いしばっても頑張ることを覚悟しなければならないでしょう。
 歴史を振り返ると、この民族は国難を乗り切ると思います。
 
 実は、「親父の日本」執筆には3年の長き時間をかけてしまいました。
 テーマがあまりに難しく、私自身の手に余る問題であり、何度かギブアップしそうなところを、多くの方々に助けられ、ようやく世に出ることになりました。


[◇ 著者の文から p102]
ルサンチマン:resentiment(仏):怨恨、遺恨
特にニーチェの用語で、弱者に対する憎悪を満たそうとする復讐心が、内攻的に鬱積した心理をいう。
キリスト教の道徳・社会主義運動の中にあるとされる。




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2010年2月18日木曜日

: つくりながら考える=ワッツタワー

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● 2007/05[2002/04]



 ワッツタワー(ロスアンジェルス)は今から半世紀近く前に、建設作業員であったサイモン・ロデイアの手によって1921年から1954年まで、実に33年間もの歳月をかけてつくられた<無用の>塔です。
 彼は、自宅と仕事場の日々の往復の過程で拾った路上の廃物(例えば鉄、金網、石やレンガや小さいガラスの破片といったもの)を材料として、自分の手の届くところから少しずつ建設に取り組んでいき、絶えず変更を加えながら、ひたすらこの塔をつくり続けました。
 変更といっても、そもそもはじめから計画があったわけでもなく、彼自身最終的にどのようなものができるか分かっていなかったというのですから、まさにこれはつくりあがら考えられた建造物です。



 何ら機能を持たず、もちろん建築の許可など得ているわけではない。
 建築には普通限られた予算があり、時間の制限があり、求められる機能があり、何よりつくるべき何らかの目的があるものですが、この建物にはそれら全てがない。
 ワッツタワーは、社会に現れる建造物としては、実に異様な状況でつくられたものなのです。

 ほぼ現在の姿が出来上がった1954年に、ロデイは突然、つくるのをやめて姿をけしました。
 サンフランシスコの片田舎で発見されたロデイは、何故あのようなものをつくったのかと問われても、何もしゃべらなかったといいます。
 思うに、オデイアにとって、この建物をつくることは、生きることと同義だったのではないでしょうか。
 自己の存在証明だったといっても良いかもしれません。
 ロデイアにとって、意味を持っていたのは塔をつくるという、プロセスそれ自体だったのであり、行為が終わった後の虚無感から逃れるために、次の創造の対象を求めるために、旅立ったのではないかと思うのです。

 現代社会の発展とは、個人の叫び、個性というものを、分散させて、切り捨てて、全体性を保持することで成立してきたものでした。
 高度に管理された社会の中で、個人が思いを貫いて建築をつくっていくには、大変な勇気と、労力が必要とされます。
 だからこそ、ロデイアは、働いて資金を稼ぎながら、たった一人で、この塔をつくりあげたのです。
 誰の手も経ずに、ロデイア一人の手によってつくられたことで、ワッツタワーは、部分がそれぞれ激しく主張しながらも、辛うじて一つの表現として全体性が保たれています。
 ロデイアがワッツタワーにおいて勝ち取った自由、そこにある圧倒的にまでの「つくる」という意志は、つくることがこれほどに自由で有り得るのだということを、制約でがんじがらめになった現代社会に対し、訴えているかのようです。







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: 場をつくる=シドニーのオペラハウス

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● 2007/05[2002/04]



 建築とは、決して理念のみで成立するものではなく、その建築と場所、歴史、社会といった様々なものと近代の論理の「対話」があって、初めて生み落とされるものだと考えています。
 今世紀、西欧に生まれた近代建築は、経済の合理性を唯一の論拠とする現代の制度によって、ゆるぎない地位を与えられ、地域、風土といった、近代の論理と相容れないものを容赦なく切り捨ててきました。
 なにより「場所性」を無視してつくることは、建築によって場の力を顕在化させる、すなわち敷地を味方につけてより豊かな環境を形成する好機を放棄することになります。

 「建築と場所」の問題を考える上で、また社会に与えたインパクトを考える上で、1973年に完成したシドニーのオペラハウスほどに計画段階から多くの人々の興味を引いた建物はありません。
 十数年にも及んだその計画と建設のプロセスは建築がどれほどに場所性と深くかかわり、また社会に影響を持ちえるかを如実に示しています。

 1956年に催されたオペラハウスの国際コンペで、見事一等を勝ち得たのは、デンマーク出身のヨーン・ウッツオンでした。
 なにより世間を驚かせたのは、彼によって描かれた港に浮かぶ白い帆船を思わせるような大胆な造形的表現でした。
 1950年代、いまだ機能主義全盛の時代にあって、ウッツオンは<かたち>が意味を持った建築を提案したのです。

 ウッツオン案のオペラハウスの最大の特徴は、コンクリートのシェル構造の組み合わせによる大屋根の造形です。
 これは決して内部の機能から導かれたものではなかったので、当時の建築界では、その是非を巡って激しい論争が沸き起こりました。
 なにより問題になったのは、表現の合理・不合理以前に、その屋根が、果たして実現可能なものかという点でした。
 事実、当時の技術水準では、ウッツオン案は、構造的にも、施工的にも実現不可能だったのです。



 その構造設計に、真っ向から取り組み、見事な解決へと導いたのが、今世紀を代表するイギリスの技術集団である「オブ・アラップ・アンドパートナーズ」でした。
 安易に妥協することなく当初のデザインを守り抜くことを決意した彼らは、数年間の悪戦苦闘の後、「球面ジオメトリー」を導入することで複雑な曲面からなる屋根を、見事明快な幾何学的システムとして成立させます。
 屋根を校正するあらゆる曲面の部分を、一つの大きさの球から取り出すことで、建築部材の規格化に成功したのです。



 ウッツオンの案は、一次選考ですでに落選案として処理されていたのを、審査員の一人であったエーロ・サーリネンが後から拾い出し、強く推した結果採用されたものだといいます。
 サーリネンは当時、建築の技術に重きをおく構造表現主義を代表する建築家の一人でした。

 着工から1973年のオープニングに辿り着くまでの14年間、その完成のために費やされたエネルギーは膨大なものです。
 工費は実に当時の金額で400億円にも及び、財源の一部は宝クジで賄われたといいます。
 インターナショナル・スタイルが世界を席巻し、建築が大地から切り離された存在となっていた当時、ウッツオがのオペラハウスによってつくろうとしていたのは文字通り<そこにしかできない場>としての建築であり、彼はオペラハウスによって、建築が単に人々の活動を受け入れる器であることを超えて、都市のイメージを変えるほどの力を持ち得るのだということを我々に示してくれました。
 シドニーの、シドニー港という場所だったからこそ、その美しいオペラハウスが'生まれたのであり、またその実現のために多くの人々が心を尽くしたのです。



<略>



[◇]
 「球面ジオメトリー」なるものがよくわからないので検索してみたが、お手軽に説明しているものはなかった。
 wikipedia にもなかった。




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: 都市

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● 2007/05[2002/04]



 コルビジェら近代の建築家による都市提案は、その後の世界中の都市建設の指針として多大な影響を与えました。
 しかしそれらは、抽象的な、図式的に過ぎるものであったがゆえ、それ自体ほとんど現実とは相容れないまま建築家の夢想として終りを迎えることになります。
 コルビジェにしても、建築はさておき、都市に関する提案については、連戦連敗でした。
 その中で唯一実現した例として、戦後のインドのチャンデイガール都市計画がありますが、これもコルビジェの抱いた理念とインドの現実との、その余りの落差によって、結果インドの人々には否定的に受け取られています。

 他にも近代都市計画の実現例として、ブラジルの新首都ブラジリアや、オーストラリアのシドニーの近くにつくられた新都市キャンベラなどがあります。
 これらも機能主義に基づく理想的な都市としてつくられはしたものの、その都市空間の画一性、それによる疎外感などから現在では批判の対象になっています。

 何故上手くいかなかったのか。
 それは、都市が都市であるために必要な固有の論理というものを、それらの計画が考慮しなかったからです。
 それは共同体としての都市を営む住民自身の手によって長い時間の中で育まれるものであり、決して一人の計画者の手によって与えられるものではないのです。
 近代に提出された都市計画概念は、社会をより良いものにしようとする理想を語ったものでした。
 一方では「全てを思い通りに計画できる」という、独善的な態度があったのも否めません。

 1960年以降になると、このような近代主義的都市計画に反発するかたちで、都市計画に生活者の論理を組み込んでいこうという提案が提出されるようになります。
 なかでもとりわけ有名なのが、クリストファー・アレグザンダーの1965年の論文「都市はツリーではない」です。
 この中でアレグザンダーは「ツリー」と「セミラテイス」という2つのモデルを用い、明快かつ論理的に近代主義的都市計画の限界を指摘しました。
 近代主義の都市計画が単純な思考形態(ツリー構造)に従ってできているのに対し、現実の都市はもっと複雑な在り方(セミラテイス構造)を呈している、都市計画もまたセミラテイス構造をとるべきだ、というのが彼の主たる論旨です。



 確かに都市の魅力とは単純な機能分化の崩れた、計画概念では生み出しえない部分にこそ存するものです。
 計画論理の整合性のみで人間を満足させることはできません。
 このような視点で都市の在り方を考えたとき、再び陰影の深いパリの都市空間が浮かび上がってきます。






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: 広場

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● 2007/05[2002/04]



 旧い歴史をもつイタリアの都市にはすぐれたものが多く、それぞれに歴史の年輪を刻み込んだ美しい広場が都市の核として営まれてきました。
 都市の整備が行われるようになるのは、ルネサンス期のローマからです。

 特に日本人にも親しみ深いのは、映画『ローマの休日』で有名なスペイン広場でしょう。
 この正面を飾る階段は、まさに舞台装置というに相応しいものです。



 ここでの階段は、本来の異なるレベルをつなぐという機能を超えて、広場の背景としての役割を果たしています。
 逆に、階段を上りそこに立つ人にとっては、階段が都市を眺める観客席になります。
 つまり、この階段は人々のありとあらゆる行為を包みこんだ劇場そのものなのです。
 階段は、イタリア広場や建築に独特の味わいをもたらす重要な要素であり、空間に変化とふくらみを与えるのに欠かせないものです。
 スペイン広場は、この階段の楽しさを満喫するための建築なのです。

 中世の広場は市民生活の必要から生まれたのに、あくまで経験的、身体的な感性に基づき人々が素朴な感動を得られるように造形されています。
 その最たる特性は、広場を取り巻く壁の存在がより'意識的に扱われている点です。
 無論、ルネサンスの広場においても空間は閉じて簡潔しているのですが、中世では不整形なものが多いため、より一層その傾向は強調されて感じられるのです。
 この広場を囲い取るという意識こそが、西欧の広場の本質であり、また日本の都市が西欧的な意味での広場を持ち得なかったゆえんです。

 西欧の人々にとって、広場とはいわば戸外の居間でした。
 居心地の良い居間として成立するためにはなによりそれが空間として意識されるよう、明快な領域が設定されていなくてななりません。
 それゆえ周囲は連続した壁面によって囲われる必要があったのです。
 その意識は、ルネサンス以降になると、建築の内部と外部とを切り離して考える、すなわちファサードを街路や広場の壁面を形成するものと区別して考える思想へとつながっていきます。
 ルネサンス以降のヨーロッパにおいて広場の整備とは、広場ファサードの整備を意味しました。
 ミケランジェロのつくったローマのカンピドリオ広場も、ファサードを整えて広場を完成させる手法の典型的な例です。








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