2010年2月22日月曜日

: 日本語検定試験


● 1992/10



 チャールズ皇太子と私はケンブリッジ大学の同窓生になった。
 私はロシア語とフランス語を、彼は考古学と人類学を専攻していた。
 両方とも授業は同じ教室を使っていた。
 講義が終わって外に出ようとしたら、次の講義を聴く未来のイギリス国王が教室の前でじっと待っていた。
 お互いにニコッと笑って、「ハロー」と言葉を交わしたもんだ。
 数週間後、ケンブリッジの町中で猛然と自転車を漕いでいたら、チャールズ皇太子が道路を横切ろうとした。
 遠くから来る私を見て立ち止まり、走りすぎるのを待っていてくれた。
 それ以来、皇太子には会ったことはない。

 私は日本語検定一級の試験に落第した「イギリス人第一号」という、あまり自慢にならない経歴を持っている。
 試験問題は日本人の作成になる本格派で、外国の大学教授が作る問題よりかなり程度が高い。
 1986年のとある日曜日、雨の降りしきる憂鬱な日曜日に、イギリス北東部のシェフィールドで初めての試験が行われた。
 が、受験者は「私一人」しかいなかったのである。
 シェフィールド大学にはイギリス随一の「日本語学科」がある。
 日本語を教えている高校が少ないので、「ここの学生にいきなり一級の試験は難しすぎる」と教授が言っていた。
 果たせるかな、私にも難しすぎたのである。

 向こう見ずの私は、2年後に東京で再度挑戦した。
 問題が難しいのは前回と同様だが、雰囲気はまったく違っている。
 ロンドンから乗った列車はガラ空きだったが、今回の会場である青山学院大学に向かう地下鉄は、身なりも、肌の色も、顔つきも千差万別の外人で溢れていた。
 貸切バスでくる人もいた。
 東京での受験者の数が地球の反対側より多いのは当然である。
 何人かの受験者と話してみると、いわゆる太平洋時代の幕が開き、日本語がアジアのエリートの言葉になっていることがすぐにわかった。
 英語圏の大学は、長年にわたって発展途上国の学生が政治や経済で身を立てるパスポートだったが、いまやアジアの学生の多くは日本を向いている。

 さて試験の中身である。
 案内書によれば、約2千字の漢字と、1万語の単語を習得した人が対象とされている。
 問題の多くは、文章を読んで正しい答えを選ぶ方式である。
 日本人はよく英語のスペリングがややこしいと文句をつけるが、26文字のアルファベットなど、2千の漢字と比べれば問題にならない。
 まして、さらに平仮名とカタカナまであるのだ。
 しかし、漢字には便利なところもある。
 音声でなく、意味を表すから、覚えなければならない1万語のうち、かなりの単語はほぼ正確に意味を類推できる。

 奇妙なことに、丸一日の試験を通じて文字は一字も書かなかった。
 すべて4つの回答の中から、正しい答えを選ぶ仕組みである。
 日本ではこれが一般的だと聞いていたが、試験とは何がかけるかを試す制度という国で育った人間にとっては、世論調査に協力を求められたような気分である。
 ひょっとしてテレホンカードでもくれるのかな、と思ったほどである。

「気にするなよ」
 と、サリー州出身の英語教師が言った。
 彼もマゾ趣味で試験を受けていたのだ。
「〇× なら猿でも25%は正解できるんだ」
 が、心配の種はそこにある。
 私は、それ以下の成績しかとれないかもしれないのだ。

 1989年の1月末、一通の速達が届いた。
 封筒を開けると、「訂正のお願い」と書かれた一枚の紙切れが床に落ちた。
 日付は「昭和64年1月17日」ではなく、「平成元年1月17日」と読み替えてほしいという内容だった。
 昭和天皇は郵便物が発送された十日前に亡くなっていた。
 速達は12月に受験した日本語検定試験の成績通知であり、その成績の部分だけ空けて事前に印刷したものである。
 日本は天皇即位の年から新しい年号に切り替えるという慣習を守っている。
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 さて、元号の話を長々と書くきっかけになったのは、私の成績通知書であった。
 その中身が気になる方のために、一言書き添えておこう。
 日本には昔から試験の合否を桜の花に例える習慣がある。
 サクラが咲けば合格、散れば落第である。
 私の桜は「満開」であった。









 【習文:目次】 



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