2010年4月24日土曜日

★ ガン回廊の炎:あとがき:柳田邦男

_

● 1992/06[1989/07]



 ガン制圧という難問を克服するために、臨床医や研究者たちに求められる一番大事なものは何だろうか。
 それは、たちはだかる難問を何としてでもブレークスルー(突破)しなければ退かないというパッション--情熱--ではないだろうかと、私は思う。

 そして、パッションこそ、私がガンとの闘いの記録を継続して書いていこうと心に決めて、10年前に著した第一作『ガン回廊の朝(あした)』以来の主題であった。
 本書においても、私のその意識は変わっていない。

 本書は、1970年代末から1980年代末にかけてのほぼ10年間におけるガン医学・医療の歩みを、同時期における人間の生と死を重ね合わせつつ記録したものである。
 『ガン回廊の朝』は、早期胃ガン発見のための診断法が確立された1960年代から、ガン医学と発ガン研究がようやく多様な前進をみせ始めた1970年代にかけての時期を大賞にしたのに対し、それ以後を扱った本書は、いわば姉妹編ということができる。
 しかし、それぞれに独立した作品であることは、いうまでもない。

 本書で採り上げた素材は多岐におよんでいる。
  血を流さない肝ガン手術法の新展開、
  機能温存の大腸ガン手術、
  乳ガンの縮小手術、
  早期胃ガンの局所治療、
  高齢者肺ガンの手術法、
  進行ガンの温熱療法、
  モルヒネ革命による疼痛対策の前進、
  中心静脈栄養法(IVH)、
  CR・超音波・電子内視鏡などの新しい画像診断装置の開発、
  通院治療センター、
  ターミナルケア、
  新しい「生と死」のかたち、
  ガン遺伝子、
  発ガン物質、
  研究の国際化、
等々、いずれもガン医学の新しい潮流を形成するものばかりである。
 これらの項目を見ただけでも、ガン医学・医療が1980年代になって、いかに大きく変貌し前進し始めたかがわかろうというものである。
 『ガン回廊の朝』を書いた当時には予想していなかったものが大部分を占めているだけに、1980年代のガン医学・医療の進展に、私は驚きの連続だった。

 こうした素材のそれぞれについて、私は、研究や開発の発送の原点や臨床での取り組みの経過と成果を、ドラマとして取り出すように努めた。
 ドラマのシーンにこそ、パッションを見出すことができると、かねて考えていたからである。

 パッション(passion)という言葉に関して、もう一つ書いておかなければならないことがある。
 パッションという言葉は、第一義的には「情熱」という意味に対応させてよいのだが、もう一つ別の語義として、「受難」という意味で使われることがある。
 大文字で”The Passion”と書けば、キリストの受難を意味する。

 ガンという不条理の病に襲われるのは、現代人の「受難」というべきではないか。
 臨床医や研究者がガンの治療や研究に「情熱」を燃やすのは、その裏側にガン患者の「受難」に対する限りない同情と愛があるからであろう。
 その表裏両面を内包するパッションという言葉こそ、ガンとの闘いを前進させるキーワードだと、私は考えている。

 ガンとの闘いの記録を書き続ける意図について、私は『ガン回廊の朝』につづいて日米両国の取材をクロスさせて書いた『明日に挑む闘い ガン回廊からの報告』の「あとがき」のなかで、次のように記した。

 ガン制圧は、20世紀の人類の課題である。
 これからの21世紀に向けて繰り広げられていく無数の闘いは、明日への遺産として、可能な限り書き継ぐがれるべきである。
 たとえ年月を経ても、医学と人間の真摯な闘いの中には、繰り返しかみしめられるべき普遍的な価値があるはずだからだ。
 書き継ぐ方法としては、5年刻みで、その間にあった闘いと前進を、同時進行の形で記録していく。
 5年くらいの感覚が、研究なり臨床的実践なりの意義を評価するのに、手ごろであろうし、次の段階へのパースペクテイヴ(展望)をもちやすいだろうと思う。
 このようにして10年、20年と記録を積み重ねていけば、広範な「現代の戦場」において人間が何をしたのか、その全体像を明らかにすることができるのではなかろうか。
 この作品は、前作『ガン回廊の朝』とともに、そのような狙いによる連作の「戦記」の第一歩にしよう。

 これが、私の構想であった。

 この考えは、いまも変わっていない。
 それゆえに、いま再び『ガン回廊の炎』を書いたのである。
 そして、本書では、全2作よりも多様な視点を導入し、ガンとの壮大な闘いを、医師の眼だけで見るのではなく、看護婦の眼、薬剤師の眼、基礎研究の眼、企業の開発者の眼、患者・家族の眼という様々な視座から、それぞれ均等に眺め、そこに全体ドキメントとでもいうべき世界を構築しようとした。

 断っておきたいのは、本書はガン医学の総論ではないし、日本のガン医学全体を満遍なく紹介した報告でもない。
 現代のガンとの闘いの戦場の内実を描き出すために、一定の場所にカメラを据えて、定点観測する方法を考え、その観測点として国のガン対策の中心帰還になっている「国立がんセンター」を選んだのである。
 国立がんセンター以外の全国各地の大学や各種の医療機関や研究機関でも、それぞれにすぐれた臨床の取り組みや研究を進めているのは、いうまでもない。
 そのいくつかは、観測点である国立がんセンターでの物語りを進めるうえで、必要な範囲で記述した。
 読者が本書を「現代の戦場」で起こっていることを記録した叙事詩として読んでくださることを願っている。

 本書は「NEXT」誌に1988年1月号から12月号まで12回にわたって『続・ガン回廊の朝』の題で連載した作品(約900枚)の構成を大幅に変えるとともに、約200枚を加筆して、題も『ガン回廊の炎』とあらためたものである。

 1989年夏  著者






[◇]
 ということは、前作『ガン回廊の朝』を読んだのは、いまから30年も昔のことになるわけである。





 【習文:目次】 



_

2010年4月21日水曜日

★ 陽気なギャングが地球を回す:伊坂幸太郎


● 2009/05[2006/02(2003/02)]



文庫版あとがき

 90分くらいの映画が好きです。
 もちろんその倍以上のものでも、半分くらいのものでもよいのですが、時計が一回りしてきて、さらに半周進んだあたりで終わる、そんな長さがちょうど体質にも合っているようです。

 あまり頭を使わないで済む内容であれば、そちらのほうが好ましいです。
 アイパッチをつけた男が刑務所に忍び込んで、要人を救出して逃げだしてくる¥。
 そういうのはとても良いですね。
 現実味や、社会性というものはあってもいいのですが、ないからといってあまり気になりません。
 今回、ふと、そういうものが読みたくなり、銀行強盗のことを書いてみました。
 4人の銀行強盗が出てきて、わいわいガヤガヤと喋りながら、騒動に巻き込まれていく話です。
 現実世界とつながっているように見えながらも、実はつながっておらず、また、寓話のようにも感じられるかもしれませんが、寓意は込められていない、そういうお話になりました。

 実は、この4人の銀行強盗たちを引っ張り出すのは、これが初めてではありません。
 数年前、サントリーミステリー大賞で佳作をいただいたことがあるのですが、その話にも彼らは登場してきます。
 当然ながら内容は別物で、そこでの彼らは、銀行をうまく襲撃した後で誘拐事件に巻き込まれたりしています。
 彼らは饒舌で、時にのんびりしていますので、もしかすると、傍目からはふざけているように見えるかもしれませんが、本人たちは真剣だったりします。
 真剣な人たちのことが僕は嫌いではありませんので、彼らの話を書くのは苦痛ではありませんでした。

 読み終えた方々が何かの折に、
  「そう言えば、あいつらどうしているのかな」
と思い出してくれれば、これほど嬉しいことはありません。

 2003年1月8日    伊坂 幸太郎









 【習文:目次】 



_

2010年4月20日火曜日

★ 血脈:あとがき(全):佐藤愛子

_






● 2001/03



 「別冊文芸春秋」に連載していた「血脈」が完結したのは、2000年232号で、実際に書き終えて担当の樋橋優子女史に原稿を渡したのは、「(2000年)5月18日午後9時」と心覚え程度につけている日記に記している。
 この日は雨で、午後から晴れたとある。

 「朝4時に目が覚め、もうひと眠りしようと思ったが、血脈が気がかりで、起きて手直しにとりかかる。ラストを直して朝風呂に入り、出てからまたつづきをする。雨は降りつづき冷え込む。昼近くさすがに空腹を覚え、昨夜の味噌汁の残りに冷飯と卵を入れ、おじやにして食べる」
 
 その後、上坂冬子さんとの対談に出かけ、腱鞘炎の治療に行ったが、突然「宮さま」が来られることになったので治療はしてもらえず、帰ってきて再び血脈を読み返して手を入れ、読めば読むほど気に入らないところが出て来そうなので芽をつむって原稿を封筒に入れた。
 遠藤周作さんが「深い河」だったか「死海のほとり」だったかおぼろなのだが、とにかく大作を外国のどこかの街のホテルで書き上げた時のこと。
 最後の一行を書くとペンを置いて机を離れ、窓辺へ行って夜更けの街を見下ろして感慨に浸ったという記述を何かで読んだことがある。
 その時、私は彼の胸のうちに作者のほかには誰にもわからない充足感、虚脱感、解放感のようなものが湧き出てきたであろうことを想い、作者の至福とはまさにこういう時であろうと羨ましく思ったのだった。

 しかしこの私は「血脈」の最後を書き上げると、アホウのようになって暫く庭を眺めているうちに何ヶ月か前に北海道から送られてきたジャガイモから芽が出ていたことを思い出し、前から気になっていたそれを何とかせねば、と立ち上がってコロッケを作った。
 コロッケ15個で、芽の出たイモは完全に処理出来た。
 「血脈」を12年かけて書き上げた緊張と疲れはコロッケを作ったことで拭い去られたのであった。

 今から13年前になるか、14年前か、記憶は定かではない。
 当時「別冊文芸春秋」の編集長だった中井勝さんから、どういう話がきっかけだったのかそれも思い出せないが、勧められて、私の一族に流れる「毒の血」を書こうという気持ちが動いた。
 今は亡き親友の中山あい子は始終、
 「あんたはいいよね、ヘンな親類がいっぱいいて」
 小説のネタはいくらでもある、と羨んでいた。
 多分そんな話でも中井さんにしたのだったかもしれない。
 だが、心は動いたものの、はっきり決心したわけではなかった。
 考えてみれば中山さんのいう「ヘンな親類」はあまりに多すぎる。
 そればかりか考えてみれば私もその一人であることを思うと、どういう手法で書けばいいのかがわからなかった。

 とつおいつしている私の所へ、中井さんからはこれでもかと言わんばかりに資料が送られて来る。
 連載の期間は何年でもいい、1回の枚数も限定しないと中井さんは言ってくれる。
 私は次第に「その気」になっていき、やっと書き出したのは65歳の夏である。
 先はまっくら。
 混沌の闇に閉ざされている。
 どこまで、何に向かっていくのか、いつ終わるのか、何も分からなかった。
 提灯の明りを頼りに闇をかき分けかき分け歩を進めるといったあんばいだった。
 取材ノートはあるが、構成ノートなど何もない。
 章が替る都度、思い浮かぶことに引っぱられて書いていた。

 いつか私の60代は終り、70代にさしかかった。
 小説はまだ終わらない。
 その頃には書くことは(殊更に作品をモノにするといった意識ではなく)料理をしたり、風呂へ入ったりするのと同じ私の日常の中に融け込んでいた。
 老いた漁師が雪の日も風の日も沖へ舟を出して魚を追うように、私の近所の豆腐屋が暑い日も寒い日も夕方になるとラッパを吹いて廻ってくるように、私は書いていた。

 佐藤紅緑には、少年時代に紅緑の書く少年小説を読んで勇気と力を得たという70代、80代の読者がまだ健在で、そういう人たちから時々手紙を貰う。
 またサトウハチローさんはなんて優しい純情な方でしょう、ハチローさんの詩集「おかあさん」を読むと心が洗われて涙が出てきます、という人にもよく出会う。
 「血脈」はその人たちをどんなにか失望させ、憤らせることだろう。
 だがそう思ったからといって、書くのをためらうという気持は起こらなかった。
 それを書くことは私にとっては必然だった。
 そう考えるようになっていった。

 紅緑は人一倍高い理想を持ちながら、どうすることもできない情念の力に押されて、我と我が理想を踏みにじってしまう男だった。
 ハチローは感じ易くセンチュメンタルで、無邪気な人間であるが、その一面、鋼鉄の冷たさと子どものエゴイズムを剥き出しにした。
 若い頃の私は紅緑の小説を「造りモノ」だと批判し、ハチローの詩を「嘘つきの詩」だと軽蔑していた。
 だが「血脈」を書くにつれてだんだん分かってきた。
 欲望に流された紅緑も本当の紅緑なら、情熱籠めて理想を謳った紅緑も本当であることが。
 ハチローのエゴイズムには無邪気でナイーブな感情が背中合わせになっていたことも。

 紅緑、ハチロー、そしてその血を引く佐藤家の者たちはどうにもならぬ力で押されてまわりを苦しめつつ、自分の胸の奥に人知れず苦しい涙壷を抱えていた。
 書き終わった時、私の中には、この始末に負えない血に引きずられて苦しんで死んでいった私の一族への何ともいえない辛い哀しい愛が湧き出ていた。
 世間の誰もが理解しなくてもこの私だけはわかる。
 我がはらからよ。
 今はそういった充足感だけが私の胸の底にある。

 もし中井勝さんに廻り逢わなければ、この小説は書かれずに終わっただろう。
 そうなると私の我が一族への理解も届かぬままに終わっただろう。
 中井さんの後。編集長は高橋一清さんに移った。
 高橋さんは原稿を読むと必ず刷り出しにびっしりと完走を書き込んで送ってくれる。
 その感想(実にうまい激励)を力杖に私は行く先わからぬ山路を辿った。
 高橋さんから重松卓さんへ、それから明円一郎さんへと編集長が替わっていく間に私は65歳から77歳になった。
 最後の3年は仕事熱心でで定評ある樋渡優子女史が担当になり、若い情熱でヨレヨレの私を引っ張ってくれた。
 不精者の私に代わって取材協力者としての佐々木弘さん、向谷進さんにもどんなに助けられたことか。

 小説作品は作家一人の力で生まれるものではない。
 半分は伴走者としての編集者、そして取材協力者あってこそ生まれるものだと心から感謝しています。
 皆さん、ありがとう。

 平成13年2月                    佐藤愛子







 【習文:目次】 



_

2010年4月10日土曜日

★ 月下の恋人:『月下の恋人』補遺:浅田次郎


● 2009/09



 このごろの小説は季節感が希薄になった。
 むろん、よほど特殊な設定の短編小説でないかぎり季節の設定は行われているのだが、そもそも風景描写が少なくなったせいで格別の意味は持たない。
 
 理由は二つあると思う。
 一つは私たちの現実生活が天然から乖離したせいであろう。
 昔ほど暑さ寒さを肌に感ずることがなくなり、雨に打たれもせず、風に吹かれもせずに暮らしているのだから、あえて小説の中に季節感を盛り込むほうが、むしろ不自然であるともいえる。
 もう一つは翻訳小説の影響ではなかろうか。
 截然(せつぜん)たる四季に彩られた日本では、古来その背景を描かなければ物語りは成立しえぬと考えられており、事実その通りに書き継がれてきた。
 文学の主役は人間ではなく天然であったと言っても良いほどである。
 一方、欧米の小説はそれほど天然に依拠するわけではないから、伝統的な日本文学よりも翻訳小説を愛読して育った世代からは、四季の風景画必要ないものとして斥けられるのもまた当然であろう。。
 しかし、これが文学の正しい変遷であると断ずる勇気が、私にはない。

 このほど上梓した短編集『月下の恋人』を改めて通読し、われながら何とまあ古くさい小説ばかりであろうと呆れた。
 ただしこの古くささが悪いと思ったわけではない。
 私は私の作品の正当性を信じているし、これ以外の手法は使いようがないのだから仕方あるまい。
 どの短編も。まず冒頭に俳句のごとき季語を据えなければ話がはじまらぬ。
 主役は季節であり、登場人物たちはその風景の中を動きまわる。
 はたして若い世代の読者が、こうした結構を持つ小説に納得するであろうか、と私は懸念した。
 だが重ねて思うに、これ以外の手法は使おうにも使えぬのだから仕方がない。
 そう思い定めて、表題は『月下の恋人』とした。
 雪や時雨や、蛍火や秋虫のすだきや、自然から遠のいた読者にはうんざりするような様々の風景の中でも、とりわけこの短編群には満月のイメージが濃いと感じたからである。

 11編の掉尾には、「冬の旅」と題する私小説ふうの小品を据えた。
 中学3年か高校1年か定かではないが、文学を志していたそのころの私は、モリエールの一行に呪縛されていた。
 「自然(ファジス)は善美と調和を生み、不自然(アンチ・ファジス)はあらゆる破綻を生ぜしめる」
という言葉である。
 どうしたわけかこの難解な一文が、私の胸をがんじがらめに縛めており、この文意を解明せねば一歩も前に進めぬ気がしていた。
 川端康成の『雪国』 に憧れていたのはたしかだが、正しくはこのモリエールの言葉を胸に抱いて、15歳の私はおろおろと冬の旅に出たのだった。
 車窓から雪景色を眺めているうちに、思いもかけぬ結論を見た。
 東京の街なかに育った私は、そもそも善美の母体たる自然を知らなかったのである。
 この胸にしみ入る自然の美しさ灼(あらた)さを信じさえすれば、小説家になることができるのだと思った。
 あの冬の旅で越え難い国境の峠を越えた渡しにとって、以来日本の四季と自然は小説の主人公となった。

 小説のかたちは時代とともに変容する。
 おそらく私の小説は、内容もさることながらこの大時代な文章も、さまざまな誤解を受けているにちがいない。
 あるいは多くの読者が、時代の早瀬に取り残された私を、なかば嘲笑しつつ気の毒がって顧みているような気もする。
 しかしやはり私は、モリエールの言葉を信じ、かつ川端康成が横光利一に誄(るい)したように、父母なる日本の山河を書かずにはおれない。

 (『本が好き!』2006年6月号より)









 【習文:目次】 



_

2010年4月9日金曜日

: 天皇制、ダブル・スタンダード

_

● 2004/09



---- 松本 ----
 私の考えはこうです。
 憲法というもの自身、わずか百年とか、二百年とかの歴史しかない。
 これをもって千年、二千年と続いて、しかも時代とともに形を変えていく天皇制を規定しきることはできない。
 天皇制という「国民の総意」「歴史の集積」は、たった百年の設計主義で規定するわけにはいかないのです。

 その意味で、長い歴史をもつ民族は必ずダブル・スタンダード(二重基準)で生き延びてきていると思うんです。
 その時代の文明をは取り入れつつも、「民族が生きてゆく形としての文化」とのダブル・スタンダード、いまの例でいえば、日本は国民主権の国家ではあるけれども、その「主権の存する日本国民」が民主主義原理とは背反せざるをえない天皇を「象徴」として戴いている、というダブル・スタンダード。
 「主権」とは「最も優越した権力」のことですが、主権を有する国民が、さらに「象徴」を戴くという二重性が、ここにある。
 私は、日本の「生き延び方」として、これはこれでいいと考えているわけです。

 歴史を持った国家には、その時々の文明的な規定があるけれども、しかしそれと同時に、これまで生きてきた「生きる形」もしっかりある。
 私は「生きる形」のことを「文化」と呼んでいますが、その文化によって、現在行われている文明的な規定をうまく取り込みながら、自分たち民族の生きていく方法とすればいいわけです。
 一方に歴史的「文化」がある。
 もう一方に現在の「文明」がある。
 そいううダブル・スタンダードを持っているのが歴史的国家なのです。
 ダブル・スタンダードは二枚舌だから悪い、世界の大勢となっているグローバル・スタンダードに統一せよ、などというのではなく、それくらいの叡智を働かせなくては長い歴史のある国はうまくいかないのです。


---- 西部 ----
 私の天皇感を少々お話しておけば、天皇という文化制度は、
1)..日本の国家(日本の国民とその政府)がこれまで社会的な統合と歴史的な連続性を有してきたという事実、
2)..そしてそれは今後とも保ち続けていかなければならないという規範、
 この二つのことを象徴していると考えています。
 では、どうしてそういえるのか。
 それは天皇が次に述べる2つの機能を果たしていると考えるからです。

 第一の機能は、天皇は国民精神における「聖と俗」の境界線上に位置していて、国家の儀式に際しては最高位の司祭として振舞うことです。
 「聖」の領域から見れば「神」と仮称され、「俗」の領域から見れば「人」として実在する。
 つまり半神半人の「文化的フィクション」として機能しているのが天皇だということになります。
 日本国家の統合と連続性のためには、国民の間で何らかの価値が共有されていなければならないわけですが、その共有価値を束ねているのが天皇という司祭ではないか。
 そしてその共有価値は天皇を介してさらに宗教感覚という超越の次元へと繋がっていく。

 天皇の第二の機能は、歴史感覚の基になっている」ことです。
 国民精神が成り立つにためには、国民の間に歴史感覚が共有されていなければならない。
 では、歴史感覚とは何かといえば、それは国民が自分たちの国家の栄華盛衰についての物語を共有することです。
 また、国家に関する物語=歴史においても何らかの死生観をもたざるを得ないのが人間だとするならば、国民の間ではある時代が誕生し、発展し、終焉する、という意識が共有されている。
 それが時代精神とおいうものであり、そうした時代精神に時間的な枠組みを与えているのが、明治とか大正、昭和という年号です。
 天皇は年号によって時代の始点と終点を画することによって日本人の歴史感覚の主宰者になっているのです。

 そう考えた場合、天皇という文化制度は外在的なものではなく、どうも国民精神のあり方そのものかた内発してくるものではないか。
 国民精神の構造においては、聖なる次元のまなざし(宗教感覚)という縦軸と、時代の転変への洞察(歴史感覚)という横軸があるし、またあらねばならないわけですけれども、その宗教感覚と歴史感覚を象徴しているのが天皇という制度だということになります。
 天皇とは、国民の伝統精神にほかならない。

 ついでに言っておきますと、そうした伝統精神から離れるばかりなのが戦後精神である以上、戦後精神からはしっかりと離れていただかなくてはいけない。
 「開かれた皇室」などと言ってもらっては困るというのが私の考えです。









 【習文:目次】 



_

2010年4月6日火曜日

★ 憲法改正大闘論:まえがき


● 2004/09



 コンステイテーション(憲法)とは、「一緒に(コン)」「設定(スタテユート)」することである。
 それが可能であるためには関係者のあいだに同意がなければならない。
 しかも憲法の場合、関係者は(設定時の世代だけでなく)長期間の未来世代をも含む。
 未来世代の意見も行動も一般に不確実であるにもかかわらず、一体全体、いかなる根拠で未来世代の同意を期待しうるのであろうか。

 2種類の根拠しか想定できない。
 一つは、未来にわたって普遍的な(国家建設にかかわる)理論が存在する、とみる革新主義の立場である。
 もう一つは、過去において持続して良識の体型を堅持するなら、それは未来においても通用するはずだ、とみなす保守主義の検知である。

 私はいくつもの理由から保守主義に与する者であるが、そのうちで最大の理由は、「国家」の観念そのものが保守主義的にしかとらえられない類のものだ、という点にある。
 つまり国家とは「国民:ネーション」とその統治のための「家制:ステート」(あるいは政府)とのことを意味する、と解釈しなければならない。
 ナショナル・ピープル(国民)は、単なるピープル(人民)とは異なって、歴史的な存在である。
 慣習(ハビット)の体系を、就中、そこに内蔵されている伝統(トラデイション)の体系を、過去から継承し、未来世代に手渡す、それが国民の務めだということである。

 慣習と伝統とは戴然と区別されなければならない。
 「慣習とは」特定の価値へ固執によってもたらされる国民の意見・行動の「実体」である。
 それに対して、「伝統とは」諸価値の葛藤において平衡を持(じ)そうとする国民精神の「形式」である。
 その平衡感覚が具体的にいかなる実体として現れてくるかは、状況に依存する、つまり「時と処と場合」みよる、としか言いようがない。

 こうしたものとしての伝統を遵守するというのはいうまでもなく保守的な態度である。
 よって、保守主義にとっての憲法は、合理的精神によって「設計」されるものではない。
 国民の歴史的良識の中から「成育」してくるものなのである。
 というより、合理主義の根本的な誤謬は、
 「合理のための妥当な前提は、伝統によって保証される」、
 ということを理解できない点にある。
 憲法に関していえば、合理主義によって革新的に設計しうるのは、たかだか(技術的な機構としての)政府についてであって、歴史的な存在としての国家についてではないのである。
 こうした誤謬の最も端的な産物が日本国憲法にほかならない。

 アメリカに倣って個人主義に突き進むにせよ、旧ソビエト的なものを引きずって社会民主主義に傾くにせよ、いま「個人と社会」を歴史ではなく、技術の体系の上に据え置くのが近代主義である。
 そんなところに健全な「公共精神」が成育する」わけがない。
 近代主義の下での公共性なるものは、要するに、多数派の意見・行動を是認することにすぎない。
 伝統にもとずいて「国家を成熟させる」ことが公共性だという良識は、いまの政治勢力でいえば、公明党や共産党の少数勢力はいうにおよばず、自民党や民主党の多数勢力においても、いささかも保持されていない。

 「憲法を成文化する」ことそれ自体が、理念的な模型(モデル)を追求するのが近代(モダン)だという意味において、近代主義なのである。
 伝統精神に貫かれた真正の国民ならば、むしろ「不文の憲法」感覚を確認し、その明文化が具体的にどうなるかは状況に依存すると構える。
 そうであればこそ、状況のなかでの「ルールに従う言論」をなによりも重んじる。
 ことに因んでいえば、いま最も必要なのは改憲論ではなく、廃憲論なのかもしれない。
 歴史・伝統に身をゆだねることによって国民としての自尊と自立の気持ちを持ち長らえている者なら、あちらこちらの知識人や政治家に「憲法を設計してもらいたい」などとは考えない。
 自分らの家庭生活や職場生活やコミュニケーション活動のうちに、すでに憲法感覚が醸成されているのだから、「憲法の作成」などという人工的な作業は「余計なお節介」だ、とみるのが健全な国民である。
 「近代主義の乗り超え」、これからの憲法論にとって必要なのはその視点なのだ。

 2004年8月15日 西部邁





 【習文:目次】 



_