2010年4月9日金曜日

: 天皇制、ダブル・スタンダード

_

● 2004/09



---- 松本 ----
 私の考えはこうです。
 憲法というもの自身、わずか百年とか、二百年とかの歴史しかない。
 これをもって千年、二千年と続いて、しかも時代とともに形を変えていく天皇制を規定しきることはできない。
 天皇制という「国民の総意」「歴史の集積」は、たった百年の設計主義で規定するわけにはいかないのです。

 その意味で、長い歴史をもつ民族は必ずダブル・スタンダード(二重基準)で生き延びてきていると思うんです。
 その時代の文明をは取り入れつつも、「民族が生きてゆく形としての文化」とのダブル・スタンダード、いまの例でいえば、日本は国民主権の国家ではあるけれども、その「主権の存する日本国民」が民主主義原理とは背反せざるをえない天皇を「象徴」として戴いている、というダブル・スタンダード。
 「主権」とは「最も優越した権力」のことですが、主権を有する国民が、さらに「象徴」を戴くという二重性が、ここにある。
 私は、日本の「生き延び方」として、これはこれでいいと考えているわけです。

 歴史を持った国家には、その時々の文明的な規定があるけれども、しかしそれと同時に、これまで生きてきた「生きる形」もしっかりある。
 私は「生きる形」のことを「文化」と呼んでいますが、その文化によって、現在行われている文明的な規定をうまく取り込みながら、自分たち民族の生きていく方法とすればいいわけです。
 一方に歴史的「文化」がある。
 もう一方に現在の「文明」がある。
 そいううダブル・スタンダードを持っているのが歴史的国家なのです。
 ダブル・スタンダードは二枚舌だから悪い、世界の大勢となっているグローバル・スタンダードに統一せよ、などというのではなく、それくらいの叡智を働かせなくては長い歴史のある国はうまくいかないのです。


---- 西部 ----
 私の天皇感を少々お話しておけば、天皇という文化制度は、
1)..日本の国家(日本の国民とその政府)がこれまで社会的な統合と歴史的な連続性を有してきたという事実、
2)..そしてそれは今後とも保ち続けていかなければならないという規範、
 この二つのことを象徴していると考えています。
 では、どうしてそういえるのか。
 それは天皇が次に述べる2つの機能を果たしていると考えるからです。

 第一の機能は、天皇は国民精神における「聖と俗」の境界線上に位置していて、国家の儀式に際しては最高位の司祭として振舞うことです。
 「聖」の領域から見れば「神」と仮称され、「俗」の領域から見れば「人」として実在する。
 つまり半神半人の「文化的フィクション」として機能しているのが天皇だということになります。
 日本国家の統合と連続性のためには、国民の間で何らかの価値が共有されていなければならないわけですが、その共有価値を束ねているのが天皇という司祭ではないか。
 そしてその共有価値は天皇を介してさらに宗教感覚という超越の次元へと繋がっていく。

 天皇の第二の機能は、歴史感覚の基になっている」ことです。
 国民精神が成り立つにためには、国民の間に歴史感覚が共有されていなければならない。
 では、歴史感覚とは何かといえば、それは国民が自分たちの国家の栄華盛衰についての物語を共有することです。
 また、国家に関する物語=歴史においても何らかの死生観をもたざるを得ないのが人間だとするならば、国民の間ではある時代が誕生し、発展し、終焉する、という意識が共有されている。
 それが時代精神とおいうものであり、そうした時代精神に時間的な枠組みを与えているのが、明治とか大正、昭和という年号です。
 天皇は年号によって時代の始点と終点を画することによって日本人の歴史感覚の主宰者になっているのです。

 そう考えた場合、天皇という文化制度は外在的なものではなく、どうも国民精神のあり方そのものかた内発してくるものではないか。
 国民精神の構造においては、聖なる次元のまなざし(宗教感覚)という縦軸と、時代の転変への洞察(歴史感覚)という横軸があるし、またあらねばならないわけですけれども、その宗教感覚と歴史感覚を象徴しているのが天皇という制度だということになります。
 天皇とは、国民の伝統精神にほかならない。

 ついでに言っておきますと、そうした伝統精神から離れるばかりなのが戦後精神である以上、戦後精神からはしっかりと離れていただかなくてはいけない。
 「開かれた皇室」などと言ってもらっては困るというのが私の考えです。









 【習文:目次】 



_