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● 1994/05[1994/03]
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いやがる荷風氏を市川の自宅から浅草まで追っかけ追っかけ、カメラを向けてパチパチに撮りつづけた井沢という青年の話だ。
往来といわず、電車の中といわず、「尾張屋」というソバ屋に逃げ込んだところまで追ってカメラを向けたという。
数ある荷風氏の写真の中に「井沢昭彦撮影」とコメントのついたのを目にすることは多い。
それらの写真はそのとき撮られたものなのだ。
死の前年の荷風さんを追いかけた井沢氏は当時、多摩美大の写真科の学生だったという。
「新聞社の方ですか?」
写真を撮らせて欲しいと市川の自宅に荷風さんを訪ねた井沢氏に、荷風翁はそういったそうだ。
「写真科の学生です」
と答えると、あっさり拒絶された。
まだ話が始まったばかりでとび出した「新聞社の方ですか」のひと言で、たちまち生身の永井荷風が目に浮かぶ。
実際に荷風さんを見た人の話はやはり臨場感がある。
そのあと長々と聞いた話の内容は、帰宅してすぐにメモにとっておいた。
(1).すべてのきっかけは、昭和33年暮ごろの読売新聞の記事。
記事の内容は忘れたが、風変わりな作家が近くに住んでいるのがわかった。
荷風氏は市川市、井沢氏は千葉市、同じ県内である。
(2).最初はカメラを厚紙の箱に入れて、開けておいた穴から隠し撮りをやってみたが、うまく写らなかった。
それで公然とカメラを構えて撮ることにし、何日も追っかけた。
(3).当時は電車も空いていたから、荷風さんの座っている正面に座って写すことができた。
(4).「アリゾナ」(レストラン)はちょっと高そうなので、店の中までは入らなかった。
「尾張屋」のソバなら安いと思って自分も店に入り、店内でも撮った。
(5).雷門前から荷風さんがタクシーを拾って走り去るところまでしか終えなかった。
(6).ある時とうとう、「馬鹿野郎、交番へ行くか!」と荷風さんが怒った。
井沢氏はまだ二十歳にもなっていなかった。
若かったからこそ、なりふり構わなかったのだろう。
井沢氏がいかにも不思議だったのは、荷風さんがまるで幼児みたいに隠れん坊をすることだったという。
街灯の細い電柱の陰にたってこちらの様子をうかがうなど、頭かくして尻かくさず。
突然カメラで追っかけられると、誰しもそんな行動をとるのかもしれないが、なんとも奇妙な姿に見えたらしい。
やがて荷風氏が亡くなったことを知り、すぐに「週刊大衆」と岩波書店へ写真を「売り込み」に行ってみたそうな。
マスコミにとっても絶好なタイミングで井沢氏の写真は世に出た。
「3千円もらいましたね。当時それで軽井沢に一泊のたびを楽しみました」。
若い井沢氏はうれしかったに違いない。
公開にあたっては遺族の了解を得た。
そういつまでもこのときの写真が命を長らえようとは思っていなかったが、荷風没後三十数年たった現在でも、テレビにとりあげられたり、月刊誌「東京人」の荷風特集(1992年9月号)に登場したりしている。
荷風氏の写真は数あれど、隠遁者の荷風老人に血気盛んな若者が」奇襲攻撃をかけたところに凄味がある。
青年の奔放は天の采配だったのだ。
店の中まで追いすがって写真を撮ろうとした「尾張屋」では、荷風さんが困っているのを見るに見かねて、店の女の子がわざと行ったりきたりして撮影の邪魔をしたという。
しかし、荷風没後に井沢氏の届けてくれた写真を見て、あまりによく撮れているので、大きく引き伸ばして現在も店内に飾られているという。
そりゃ一度見てみねば。
「尾張屋」だが、浅草でこれほど有名な食べ物屋はざらにないくらいの老舗だ。
場所については新藤兼人氏の一文に「尾張屋は雷門の左右にあって、荷風が行った尾張屋は向かって右の本店である」とすこぶる明解だ。
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【習文:目次】
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