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● 1992/02[1991/11]
『
狩猟牧畜時代を経ることなく、稲作農業をはじめた日本の歴史は、この国の社会に数々の特色をもたらした。
その一つは「動物とのかかわり」が乏しかったことである。
家畜を飼育し使役するには、意思をもった相手を制御し、抑圧することが必要だ。
羊や牛馬は意外と強い意思を持っているし、集団になると御しがたい行動に走る。
それを制御し使役するとなれば、人間と動物の間に支配・被支配の関係が生まれる。
そうした経験の中から、意思をもった相手を支配することを正当とする思想と技術が生まれる。
これは当然、人間にも適用されていく。
つまり、牧畜生活や有畜農業からは奴隷制が発展しやすい条件が生まれてくる。
日本は、意思あるものを支配する経験が乏しかったため、奴隷制が発達しにくかった。
この国の風土を生んだもう一つの重要な歴史的欠落は「都市国家」ないし「都市国家時代」がなかったことだ。
峻険な山地と狭い平野で構成された日本では、稲作が始まったときから、これを襲う遊牧民族がいなかった。
異民族との過酷な戦争がなかった。
そのおかげで、この島国では古来、防衛費はきわめて安く、徴兵の度合いもすくなかった。
なにしろ日本人は、「城壁のない都市」をつくった世界唯一の民族なのである。
大砲が発達して城壁の軍事的意味がなくなるまでは、世界のすべての都市は城壁で囲まれていた。
アテネもローマも、パリもバクダッドも、デリーやペキンも、すべて堅固な都市城壁で囲われていた。
城壁に囲まれていたところを都市(ポリス・シテイー)と読んだのである。
日本にも戦争はあったが、このほとんどが内戦、つまり日本人同士の戦いだった。
そしてその日本人とは、ほとんどすべて農耕民だった。
日本の戦争で、住民皆殺しが行われた例は、織田信長の伊勢長島攻めくらいであろう。
大量の労働力を必要とする稲作を行うためには、土地とともに人も支配しなければならなかった。
このため、隣の土地を支配した者は、そこの住民を殺すよりも働かせた。
年貢徴収や労働課役は行っても皆殺しにすることはなかったのである。
一般住民も、戦争の間だけ他の場所へ避難して、終わればすぐに戻ってくればよかったのである。
日本の都市にだけ城壁がない。
日本にあるのは城下町(城の側の町)であって、「城内町」(城に囲われた町)ではない。
日本の特殊な気候と地形から、「牧畜有畜と大規模奴隷制と都市国家」の3つを、我々の先祖は経験しなかった。
このことは、気象や地形そのもの以上に大きな影響を日本文化に与えた。
つまり日本人は強烈な支配・被支配の関係を嫌う「嫉妬深い平等主義者」になったのである。
文明の初期に稲作農業が発達したため、日本ではすべてを均質化する要素を持つことになる。
稲作は労働集約的であり、水の維持管理のための共同作業と共同分配が必要となる。
したがって、完全な稲作農業社会においては、個人または家族が、他の集団から独立して生きることは不可能なのである。
「あいつの田には水をやらない」といわれたら、それで終わりである。
ジンギスカンの伝記を書いた「元朝秘史」によると、ジンギスカンの父親は部族の長だったが、若くして毒殺された。
このため、それまで反主流だった者が族長となって集団を率いることとなった。
が、これを快しとしないジンギスカンの母親ホエルンは、群れから離れて一家だけで十年暮らしたと記されている。
遊牧民には、それも可能なのだ。
しかし、水田農業社会の日本では、ひとたび村落共同体から追放されると生きられない。
織田信長に追放された佐久間信盛は高野山から熊野の山奥に行ったものの、早々と餓死してしまった。
「水田が駄目なら山がある」
というわけにはいかないのである。
日本人が離れがたく帰属する村落共同体の紐帯は、宗教や血縁ではなく、稲作という「経済的生産機構」である。
「血は水より濃い」といわれるが、日本の場合は逆で、水は血より断然濃い。
血のつながりのない養子制度が発達し、土地、家屋、ノレンなどの生産手段を守ることが重要視されるのはこのためである。
稲作というのは勤勉な共同作業を必要とするが、その内容は毎年同じことの繰り返しであり、急激な変化に対応する判断は必要ない。
動物を制御することがなく、支配・非支配の発想も希薄な日本では、みんなが一緒にやろうという集団主義が定着したのも不思議なことではない。
この国のリーダーに求められるのは、先見性や決断力ではなく、稲作共同体を平穏無事にまとめる温厚さと、率先して労働に従事する自己犠牲の精神である。
日本型共同体で何よりも大切なことは、リーダーの選出にあたっては、誰もが納得できる客観的な基準で選ぶことだ。
これを間違えば共同体の和が乱れてしまう。
その最も客観的な基準は「年齢」だ。
日本人はつねに、有能なリーダーを選ぶことより、リーダーが強くなりすぎないことの方に留意した。
その究極の解決策は、リーダーをつくらないことだ。
いわゆる「傘連判」がそれである。
「傘連判」の風習は16世紀中ごろまで全国に広く見られた。
これが消滅するのは戦国時代の後期、リーダーシップが必要な大規模な戦闘が広まった後である。
リーダーシップの乏しい集団では、権限は多数に分割され、みんなが協議して事を進める集団主義が生まれる。
実際主義に次ぐ社会精神基盤、いわば日本の「気性」は、この集団主義といってよい。
』
【習文:目次】
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● 1992/02[1991/11]
『
狩猟牧畜時代を経ることなく、稲作農業をはじめた日本の歴史は、この国の社会に数々の特色をもたらした。
その一つは「動物とのかかわり」が乏しかったことである。
家畜を飼育し使役するには、意思をもった相手を制御し、抑圧することが必要だ。
羊や牛馬は意外と強い意思を持っているし、集団になると御しがたい行動に走る。
それを制御し使役するとなれば、人間と動物の間に支配・被支配の関係が生まれる。
そうした経験の中から、意思をもった相手を支配することを正当とする思想と技術が生まれる。
これは当然、人間にも適用されていく。
つまり、牧畜生活や有畜農業からは奴隷制が発展しやすい条件が生まれてくる。
日本は、意思あるものを支配する経験が乏しかったため、奴隷制が発達しにくかった。
この国の風土を生んだもう一つの重要な歴史的欠落は「都市国家」ないし「都市国家時代」がなかったことだ。
峻険な山地と狭い平野で構成された日本では、稲作が始まったときから、これを襲う遊牧民族がいなかった。
異民族との過酷な戦争がなかった。
そのおかげで、この島国では古来、防衛費はきわめて安く、徴兵の度合いもすくなかった。
なにしろ日本人は、「城壁のない都市」をつくった世界唯一の民族なのである。
大砲が発達して城壁の軍事的意味がなくなるまでは、世界のすべての都市は城壁で囲まれていた。
アテネもローマも、パリもバクダッドも、デリーやペキンも、すべて堅固な都市城壁で囲われていた。
城壁に囲まれていたところを都市(ポリス・シテイー)と読んだのである。
日本にも戦争はあったが、このほとんどが内戦、つまり日本人同士の戦いだった。
そしてその日本人とは、ほとんどすべて農耕民だった。
日本の戦争で、住民皆殺しが行われた例は、織田信長の伊勢長島攻めくらいであろう。
大量の労働力を必要とする稲作を行うためには、土地とともに人も支配しなければならなかった。
このため、隣の土地を支配した者は、そこの住民を殺すよりも働かせた。
年貢徴収や労働課役は行っても皆殺しにすることはなかったのである。
一般住民も、戦争の間だけ他の場所へ避難して、終わればすぐに戻ってくればよかったのである。
日本の都市にだけ城壁がない。
日本にあるのは城下町(城の側の町)であって、「城内町」(城に囲われた町)ではない。
日本の特殊な気候と地形から、「牧畜有畜と大規模奴隷制と都市国家」の3つを、我々の先祖は経験しなかった。
このことは、気象や地形そのもの以上に大きな影響を日本文化に与えた。
つまり日本人は強烈な支配・被支配の関係を嫌う「嫉妬深い平等主義者」になったのである。
文明の初期に稲作農業が発達したため、日本ではすべてを均質化する要素を持つことになる。
稲作は労働集約的であり、水の維持管理のための共同作業と共同分配が必要となる。
したがって、完全な稲作農業社会においては、個人または家族が、他の集団から独立して生きることは不可能なのである。
「あいつの田には水をやらない」といわれたら、それで終わりである。
ジンギスカンの伝記を書いた「元朝秘史」によると、ジンギスカンの父親は部族の長だったが、若くして毒殺された。
このため、それまで反主流だった者が族長となって集団を率いることとなった。
が、これを快しとしないジンギスカンの母親ホエルンは、群れから離れて一家だけで十年暮らしたと記されている。
遊牧民には、それも可能なのだ。
しかし、水田農業社会の日本では、ひとたび村落共同体から追放されると生きられない。
織田信長に追放された佐久間信盛は高野山から熊野の山奥に行ったものの、早々と餓死してしまった。
「水田が駄目なら山がある」
というわけにはいかないのである。
日本人が離れがたく帰属する村落共同体の紐帯は、宗教や血縁ではなく、稲作という「経済的生産機構」である。
「血は水より濃い」といわれるが、日本の場合は逆で、水は血より断然濃い。
血のつながりのない養子制度が発達し、土地、家屋、ノレンなどの生産手段を守ることが重要視されるのはこのためである。
稲作というのは勤勉な共同作業を必要とするが、その内容は毎年同じことの繰り返しであり、急激な変化に対応する判断は必要ない。
動物を制御することがなく、支配・非支配の発想も希薄な日本では、みんなが一緒にやろうという集団主義が定着したのも不思議なことではない。
この国のリーダーに求められるのは、先見性や決断力ではなく、稲作共同体を平穏無事にまとめる温厚さと、率先して労働に従事する自己犠牲の精神である。
日本型共同体で何よりも大切なことは、リーダーの選出にあたっては、誰もが納得できる客観的な基準で選ぶことだ。
これを間違えば共同体の和が乱れてしまう。
その最も客観的な基準は「年齢」だ。
日本人はつねに、有能なリーダーを選ぶことより、リーダーが強くなりすぎないことの方に留意した。
その究極の解決策は、リーダーをつくらないことだ。
いわゆる「傘連判」がそれである。
「傘連判」の風習は16世紀中ごろまで全国に広く見られた。
これが消滅するのは戦国時代の後期、リーダーシップが必要な大規模な戦闘が広まった後である。
リーダーシップの乏しい集団では、権限は多数に分割され、みんなが協議して事を進める集団主義が生まれる。
実際主義に次ぐ社会精神基盤、いわば日本の「気性」は、この集団主義といってよい。
』
【習文:目次】
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