2010年1月3日日曜日

: カムチャッカの寒村の大砲

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● 1986/06




 ロシア人がシベリアに向けて陸行してゆくのは大航海時代の終末期に位置している。
 ヨーロッパ人の未知の世界への探検と膨張、非ヨーロッパ世界に対する植民地化運動と時代気分を一つにするものといっていい。
 ただ、ロシアの冒険家は、地つづきの陸を行った。
 ロシア人によってシベリアの征服が遂げられたあと、その入手が容易であった割には面積が巨大すぎる非ヨーロッパ世界を維持するために、欧露からシベリア東端にいあたるまでの航海にたえうる航洋船の建造と航海術が必要になってきた。
 後発のオランダ、スエーデン、イギリスといった新興海運国の能力がすでに成熟したころ、森の中で眠っていたロシアがにわかに飛び起きて海に向かって駆け出すのである。
 その脚を最初に揚げたのがピョートル大帝であった。
 ピョートル大帝自身が造船見習い工となってオランダで修業したのが1697年で、それ以前のロシアに航洋の歴史はない。
 ピョートルの海洋への号砲は、大航海時代の開幕が、ポルトガルの航海王子エンリケが航海学校を開いた年とすれば、280年ほど遅れていた。

 ピョートルの航海はじめから106年経って、1803年、ロシアは最初の国家事業として「世界周航」に乗り出す。
 「クルーゼンシュテルン航海」がそれであった。
 この航海は、ロシアにとって誇るべきものだった。
 風帆船の時代「世界周航」というのは、容易になしうるものではない。
 その国の民度、統治力、科学技術がある水準に達したことの証拠になることでもあった。

 ロシアはこのあたりから、雄大な行動力をもつようになる。
 この19世紀の初頭のクルーゼンシュテルン航海を含めて、3度も、微本の江戸期に、はちきれるような国家の期待のもとに、艦船を世界周航の途にのぼらせ、3度とも航海に成功しているのである。
 しかも日本にとってただならぬ---つまり当惑すべき---ことだが、その目標の地は、3度とも日本であったことである。
 この19世紀における3度の世界周航が日本をめざしたのは、すべてシベリアにおける補給と経済的な解決を日本に求めようとしたことで、しかも3度とも、鎖国を国是とする頑迷な日本から一蹴された。

 4度目の場合は、日本はすでに開国しており、日露通商条約が結ばれていたから、交易という課題ではなかった。
 艦船は鋼鉄・蒸気船になっており、ついに戦いになった。
 日露戦争だった。
 バルチック艦隊をひきいたロジェストウエンスキー提督の航海がそれである。
 ロシア的原形論からいえば、シベリア問題が、満州・朝鮮への南下という形で活性化したということである。
 この種のことは二度とあるべきことではなく、日本に住むわれわれとしてそう願わざるをえない。

 「すぐゆけ」
 という上からの命令に、とりあえず出発を1年延ばしてもらい、船を探しに西方へゆき、ハンブルグで得られず、ロンドンでやっと中古船2隻を得た。
 船具、器具索具はすべて英国製とした。
 水平の服も英国製であり、かれらの下着まで英国からとりよせた。
 このクルーゼンシュテルン(1770~1846)の航海は、みごとに成功した。
 クルーゼンシュテルンは、1803年に欧露のクロンシェタットを出向して、ロシアにおける最初の世界周航の途にのぼり、カムチャッカを経て日本異至り、1806年に帰国した。
 帰国後、ほどなくその航海についての体験記を書き、慈悲で出版し、たちまち数ヶ国語に翻訳された。
 そのなかに、驚くべきことであるが、日本語訳も入っているのである。
 江戸幕府がやったのである。
 幕府の天文方がやった翻訳(オランダ語からの転訳)で、魅力的にな訳文として評価したい。

 この時期、ロシアの好奇心、技術能力といった国家としての力が、大きく上昇していた。
 このことは、クルーゼンシュテルンの華やかな出航から、まだ数年しか経っていないというのに、1807年、スループ船デイアナ号一隻を第二次世界周航の途にのぼらせたことでもわかる。
 指揮官はV・M・ゴローニン少佐(1776~1831)である。
 前回がすべて英国製であったのに対して、今回は艦も船具も調度もすべてロシア製であった。
 進歩というのは、国家・社会の成熟のある段階に達すると、速度が速くなるものらしい。
 英国製からロシア製へという数年の進歩というのは、驚くべきものではないか。

 デイアナ号の指揮をしたゴローニン少佐と、その副長のリコルド少佐によって、後にこの航海の回想録が書かれた。
 1816年(日本でいえば文化13年)に出版され、先のグルーゼンシュテルンの航海記と同様、直ちにヨーロッパ各国語に翻訳され、ひろい読者を得た。
 私どもが入手しうる(絶版になっているが)本としては井上満氏の『日本幽囚記』がある。
 江戸期の日本は国を鎖ざしているくせに、したたかな情報収集能力をもっていた。
 幕府によって『日本幽囚記』は翻訳されているのである。
 オランダ語版で、日本語版の翻訳刊行の早さは、ロシア語版がロシアで刊行されて、わずかに5年後であった。
 江戸期の日本は決して外界に対して鈍感であったわけではない。

 第三次世界周航をしたのが、海軍軍人P・E・プチャーチン(1803~1883)で、ゴローニン航海の出航のとき、4歳であった。
 その欧露出航は1852年で、ゴローニンの出航から45年後のことである。
 プチャーチンにとっては、日本を開国させるのが目的でありながら、ペリーの来航より1カ月遅れ、日本というサザエの蓋をこじあけるという最初の名誉は、ペリーにうばわれざるをえなかった。
 ペリーにとっての外交的成功は、「東洋人は恫喝と威嚇がきく」という予想の的中だっただけに、日本院にとっては名誉ある歴史ではない。
 一方プチャーチン航海での日本滞留は、長かった。







 【習文:目次】 




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