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● 1994/05[1994/03]
『
押しも押されもせぬ「立派な奇人変人」になるのは容易なことではない。
たった一人、山奥で暮らす仙人ならいざ知らず、人の世を渡りながら奇人変人を貫き通すには並々ならぬ覚悟も必要だ。
家庭内の調和や世間の常識から多くの点で外れていた永井荷風という人間がいかにして出来上がったか。
奇人変人の見本の一人として、その成立過程をたどってみよう。
生まれ育ちの最初からたどる必要はない。
満33歳のとき父親を失った、その前後を見ておけばいい。
妻を捨て、母親や弟と縁を切り、大学教授の職をなげうち、他人が容易に手出しのできない「大荷風」と化した顛末のすべてがそこに集中している。
女人の往来もめまぐるしく、食うに困らぬ大金を手にしたのもこのときである。
偉い父親だった。
アメリカ遊学などの後、満22歳で官界入り。
44歳で文部省会計局長を最後に実業界へ。
日本郵船に入って上海支店長を3年弱、横浜支店長を12年弱勤め、亡くなる一年ほど前に退職、悠々自適の暮らしだった。
残した遺産は株券(時価で)4万円。
敷地1千坪に及ぶ豪邸。
場所は現在の新宿区余丁町、フジテレビや東京女子医大に隣接した高台である。
当時の評価額でおよそ4万円。
あわせてしめて8万円。
米および酒の値段を参考に現在の金額になおすと2億4千万円。
現在の東京の「地価」で換算するとこの50倍(註:100億円)になる。
コワイ父親だったが、衣食の不自由を感ずることなく生活できたのはすべて、この父親のおかげだった。
そして、何だかんだ言っても長男は長男、莫大な遺産は荷風氏がすべて引き継ぐことになる。
土地半分は慶応大学を退職する直前に売却して2万円ほどの現金に変えたが、その後残りも売り払った。
これらはすべて永井荷風氏の資本となり、弟はもちろん、母親にも分配されなかった。
身内との断絶、女に対する身勝手、大金の独占。
「職業は?」と問われれば「小説家」と答えるしかない永井荷風氏の生活基盤はこのようにして成立したのである。
数多くの作品でわれわれを喜ばしてくれる荷風氏。
それを愛するということは、実にとんでもない常識外れの人物を愛好することになる。
読者たるわれわれ自身こそ、とんでもない身勝手なものだと思わざるを得ない。
お互いの身勝手を百も承知の上で、飄々と散歩していた永井荷風は「先生」や「大先生」といったものではない。
「大荷風」と呼ぶよりいたし方のない魔物である。
』
【習文:目次】
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