2010年1月1日金曜日

★ ロシアについて:あとがき:司馬遼太郎


● 1986/06



 私はここで、ロシアについて書いた。
 が、ロシア国家とか、ロシア人そのものについて書いたわけではない。

 私も、世に経(ふ)りてしまった。
 ふりかえってみると、ふしぎな---やや滑稽な---過ごしかただったように思える。
 とくにロシアについてである。
 べつにロシアそのものを考える義務をたれから負わされたわけでもないのに、ロシアに関係する二つの作品(「坂の上の雲」と「菜の花の沖」)を書くために、十数年もロシアについて考え込むはめになった。
 そのことは、私の年齢の40代と50代で終わったはずなのに、余熱がまだ冷えずにいる。

 ロシアについて考えつづけていたころ、私は勤めて、ロシアが好きでも嫌いでもないという気持ちを保とうとした。
 私はただ、歴史という大きな枠の中で、日本とのかかわりにおけるロシアを見たかっただけである。
 その関係史を煮詰めることによって、ロシア像をとりだしてみたかったのである。

 ヨーロッパ人たちは、西方から伝統的ロシアを見ている。
 具体的にはヨーロッパ人は欧露でロシアを感じ、私どもはシベリアを通じてロシアを感じてきた。
 両者の間に当然ニュアンスの違いがあるかもしれないが、切り絵にしてしまえば、二枚の絵はおそらく似たような輪郭になるだろうと思いつつ書いた。

 ここでいう、「ロシア」とは、世紀の国名のつもりではない。
 ロシア史の時間的末端にあるソ連を含めた大ワクとしてこの言葉をつかっている。
 政治もまた文化人類学の一分野に入れられてしまう時代が将来くると思うのだが、そういう予感を込めて”政治的文化人類学”的な一概念として「ロシア」という言葉を使った。
 原形をとりだすわけだから、用語としてのヒズミはないと思う。

 日露交渉史は実に若く、せいぜい二百余年でしかない。
 日本史で言えば、織田信長も豊臣秀吉もまた徳川家康も、ロシアという国名も民族名も知らずに死んだ。
 
 自国の歴史をみるとき、「狡猾」という要素を見るときほどいやなものはない。
 江戸期から明治末年までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば「謙虚」だった。
 別の言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどに「おびえやすい」面もあった。
 謙虚というのはいい。
 うちに自己を知り、自己の中の「なにがしかのよさ」に拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。
 しかし、おびえというのはよくない。
 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。
 在来保有していたおびえがキョ傲(人べんに居)に変わった。

 国家にも器量がある。
 器量とは人格、人柄、品性とかといった諸概念を集めて、輪郭をぼやかしたような何かであるとしたい。
 大正時代の日本は、それまでの日本の器量では決してやらなかった二つのことをやった。
 ひとつは、大正4年に、北京の軍閥政府に対してつきつけ、恫喝でもって承認させた「対華21ケ条の要求」といわれるものである。
 ついで、大正7年から数年も執拗につづけられた「」シベリア出兵である。

 ともかくも、日本とこの隣国は、交渉がはじまってわずか二百年ばかりの間に、作用と反作用が重なりあい、累積しすぎた。
 国家にも心理額が適用できるとすれば(げんに、できるが)、この二つの国の関係ほど心理学的なものはない。
 つまり、堅牢な理性とおだやかな国家儀礼・慣習だけで互いをみることができる(たとえば、デンマークとスエーデンの関係のように)には、よほどの歳月が必要かと思われる。
 国家は、国家間のなかで、互いに無害でなければならない。




 【習文:目次】 


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