2010年1月4日月曜日

: 海と高原の運命

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● 1986/06


 モンゴル人は13世紀のはじめから1世紀半にわたってユーラシア大陸にモンゴル帝国を樹て、中国を征服して元帝国を樹て、これを諸汗国の宗家とした。
 滅びるときは、意図を抜かれた衣服のように、はらはらと解けた。
 元の場合、帝国維持が不可能とみると、じつに淡白だった。
 中国内部にいたあらゆるモンゴル人が、騎乗する馬に鞭をあて、武装したままで北のモンゴル高原を目指して帰ってしまった。
 当時、漢民族は、この歴史的現象を
 「北帰
 と呼んだ。
 東は遼東半島から西は甘粛省におよぶ広大な元の領域から、数十万騎という人馬が、一斉に北をめざして帰っていった。
 明代になると 「北虜南倭」という言葉ができた。
 清になると「北虜」であるモンゴル人は弱くなった。
 明という漢民族王朝を滅ぼした清は異民族王朝だった。
 女真族(ジュルチン)などと呼ばれたこともあったが、牧畜と狩猟、それに多少の農業を営んでいた。
 ほぼ定住の半牧であるため遊牧のモンゴル族より戦闘能力は劣るものの、農業をもっているということで、漢民族と重なっていた。
 環民族よりはるかに戦闘力があり、モンゴル人とすら退行することができた。
 彼らは、ふつう満州人と自称・他称した。

 満州人の中国支配は、歴史の奇蹟といってよかった。
 わずか男女60万、70万人という人口の民族が、長城の内側になだれ入り、人口数億の大陸を支配したということだけでも驚くべきことであるが、その統治能力は(清朝滅亡後、中国人は正直に評価したがらないが)、歴史上のどの王朝よりも卓越していた。
 (近代以後の中国の知識人も、また中華人民共和国も、清朝の功績を認めようとしない。その理由は、異民族王朝であったこと、中国近代史のはじまりは「滅満興漢」という合言葉から出発したことによる)
 清朝は中国の領域を、史上最大の版図にひろげた。
 
 満州(清)王朝が、結果として漢民族のためにやった最大の功績は、モンゴル高原を中国の版図に入れたことである。
 外蒙古(モンゴル高原)という広大な台地が、完全に清国領になるのは、1690年である。
 また1755年には、中国の新疆ウイグル自治区が、清朝のものになりこれは今日に引き継がれている。
 

 明治末年から日本は変質した。
 戦勝によってロシアの満州における権益を相続した。
 がらにもなく"植民地"をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。
 "領土"と分相応の大柄の軍隊を持ったために、政治までが変質していった。
 その総決算が"満州"の大瓦解だった。
 この悲劇は、教訓として永久に忘れるべきではない。
 国家が為すべきでないことは、他人の領地を併合して、いたずらに勢力を誇ろうとすることだろう。
 その巨大な領域に見合うだけの大規模な軍隊をもたねばならず、もてば兵員を絶えず訓練し、おびただしい兵器を間断なくモデル・チェンジしてゆかねばならない。
 やがては過剰な軍備と軍人、あるいは軍事意識のために自家中毒を起こし、自国そのものが変質してしまうのである。

 歴史の中の日本人というのは、貧しいながらも穏やかで、どこか貧乏にたいしてトボケタところのある民族だと私は思っている。
 だが、重軍備をもったあとの近代史の中の日本人は、浅はかで猛々しく、調べていても遣りきれない想いがしてしまう。
 ロシアについても同じことがいえる。
 
 「ヤルタ協定」
 は、全三項から成っている。
 すべて日本および中国に関係する内容である。
 日本国外務省条約局『主要条約集』の「ヤルタ協定」の項の翻訳(仮訳とされている)によってみてみる。
 協定の参加国の集団呼称として、
 「三大国(ザ スリー グレート パワーズ)」
 という言葉が使われている。
 こういう表現も、詩劇的である。

 協定は3つの条項からなっている。
 その第一項こそ、最重要の内容である。

 『外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること』

 「現状」
 つまり、ソ連傘下でありつづけること。
 そういう意味である。
 言い添えると、昔のように、中国の影響力は外蒙古には及ばない、ということになる。
 スターリンが、対日参戦を承諾するにあたって、この第一項を、他の二つのパワーに再認識させたのである。
 さて、第三項である

 『千島列島が、ソビエト連邦に引き渡されること』

 これによって、いわゆる日本の「北方領土」は失われた。
 もっとも協定でいう「千島列島」とは、どの島からどの島まで指すのかという地理的規定は話し合われていない。
 だから、ソ連が解釈しているままに、島という島がゴッソリ対象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島々をとりあげ、日本側が、そこはいわゆる千島ではなく、固有領土だとする四っつの島までとりあげた。
 「そのうちの4つの島は、昔から私のものだ」
 と事実を述べるべき日本は、この席にはいない。
 3人の勝利者の分け前談義なのである。
 情け容赦があろうはずがない。

 広大なモンゴル高原と、ちいさな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように合い並んで記されているのである。
 これにより、アジアにおける戦後領域が決められたのである。
 このことは千島列島(たとえそのうちの一部であったとしても)をソ連が日本に返還するとすれば、モンゴル高原もまた中国側からの返還対象になってしまうのである。

 私は日本が大した国であって欲しい。
 北方四島の返還については、外務省が外交レベルでもって、相手国に対して、たとえ沈黙で応酬され続けても、それを放棄したわけではないという意思表示を恒常的に繰り返すべきだと思っている。
 しかし、それを国内的な国民運動に仕立てていくことは有害無益だと思っている。
 有害というのは、隣国についても無用な反感をあおるだけだということである。
 ロシア史においては、他民族の領土をとった場合、病的な執拗さでこれを保持してきたことを見ることができる。
 ヤル気なら喧嘩を買ってもいい。
 という考え方を伝統的にとってきたロシアが、日本と北方四島返還騒ぎにのみ例外を設けることはないのである。
 今日のソ連政府としては、千島列島(クリル)とモンゴル高原とが、ヤルタ協定でセットになっていることは十分承知している。
 北方四島を日本に返すことは、モンゴル高原を中国に返すことと同じ論理であると思っているのである。

 日本人が、北海道東端の沖に浮かぶ島を見て、同時に北アジアに隆起する大高原を思い合わせられるようになれば、日本人もやっと一人前のアジア人になれるのではないだろうか。







 【習文:目次】 



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