2010年1月26日火曜日

★ 日本とは何か:実際対応主義:堺屋太一

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● 1992/02[1991/11]



 日本は「経済大国」と言われているが、その実態は「規格大量生産型工業」のみが大いに発展した「工業モノカルチャー社会」だ。
 そうなったのは「最適工業社会」がこの国で出来上がったからだ。
 工業技術が高度に発達した1970年代以降になって、なぜ、この島国に、世界のどの国よりも純粋な最適工業社会が出来上がったのか。
 この問題に答えることは、日本そのものについて語ることに他ならない。

 明治維新の前後、19世紀の半ばに、欧米の近代技術と接触したのは日本だけではない。
 イスラム諸国もインドも、日本よりずっと早く欧米の技術や知識と背職したし、中国にも多くが流入していた。
 ヨーロッパからの移民が主流を占めた中南米諸国には、日本よりはるかに多くの欧米文化や技術が入っていたことはいうまでもない。
 なのに、これらの国々では近代工業が開花しなかった。
 ヨーロッパと北アメリカ以外では、日本だけが近代工業を興し得たのである。
 つまり、知識と技術と制度さえ流入すれば、どこでもすぐに近代工業が興り、社会的に普及するわけではない。
 これを消化し内生化し、全社会的に普及するためには「倫理観と美意識と社会体制」をそれに適合させる必要がある。

 つまり、技術進歩を受け入れ、大規模に利用することを「肯定する」思想背景、いわば近代社会的な倫理観と美意識が、社会全般に定着していることが不可欠なのである。
 ヨーロッパの場合は、こういう近代工業文明を受け入れる思想的背景をつくるために、16世紀のルネサンスから18世紀にいたるまでの300年間にわたる倫理観と美意識の対立、つまり思想的闘争が必要であった。
 ヨーロッパ人は、非常な苦悩に満ちた思想的闘争を経た末に、18世紀にいたって、ようやく技術が普及する社会的条件をつくり得たのである。

 イスラムやインドや中国が、ヨーロッパ近代文明に接しても、それが普及し、大規模に活用され、全社会的な変動を呼び起こすことがなかった最大の原因は、こういう思想的倫理的な条件を欠いていたからである。
 これらの地域では、今日においてもなを、欧米近代工業の普及は多くの抵抗を受けている。
 1979年に起こったイラン革命は、その劇的な現れといえるだろう。

 そもそも日本には、近代工業文明を拒むような確固とした「非近代的思想」が定着していなかった。
 日本人は、古くから「文化を体系的なものとして捉える視点を持っていなかった」。
 あらゆる事柄を、きわめて個別的具体的に考え、実際的に対応する発想しか持っていなかったのである。
 二千年にわたる歴史を通じて、つねに変わらぬ「日本社会の気風」を探すなら、それはまずこの「実際対応主義」を挙げねばなるまい。




 【習文:目次】 



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