2010年1月7日木曜日

: 城市(まち)

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● 1992/07[1992/06



 明についで、17世紀半ば、清が興った。
 本来、東北地方を根拠地とするツングース系の狩猟民族だった。
 漢人からは野蛮視され、”満達子:マンダーツ”などと呼ばれていた。
 「ヌルハチ」という英雄がこの民族を統一し、その死後いよいよ結束が固かった。

 明王朝は腐敗しきって、自浄能力を失っていた。 
 清がわずか60万人の人口をもって長城の内郭に入り、約300年間、中国全土を支配したということは、明の腐敗がいかに深刻であったかが想像せきる。
 清が、異民族王朝ながら、歴世、中国史上、まれにみる統治能力を示したのは、ひとつには元来、粗放とはいえ農業をあわせもっていたからにちがいない。
 自らの農業を持つという面で、中国という農業社会への理解ができたのである。
 この点、元と異なる。

 また、清王朝は本来狩猟民族だっただけにモンゴルの遊牧についても、多少理解があった。
 清は、勃興期、モンゴルに兵力の援助を受けていた。
 帝国成立後はモンゴル人を優遇し、たとえば"蒙古八旗"と呼ばれる特権的な武人断をもうけたり、内モンゴルにおける草原の保護(漢人による耕地化からの保護)を朝廷命令としてうちだしたりした。
 これによって、漢人がみだりに草原に鍬を入れて、耕地を作ることができなくなった。
 この禁令によって、二千年来の問題が解決された。

 が、清朝も中期ごろになると、様子が変わった。
 異民族であるという後ろめたさもあって、むしろかえって濃厚に儒教化しや。
 儒教は農をもって基盤とし、遊牧をもって夷テキとする。
 やがて清朝は、漢人の侵入者たちが、草原を耕しはじめるのを見てみぬふりをし、ついには進んで農民たちの後押しをするようになる。
 以後、"内蒙古"と中国人が呼ぶこの地域は、ほとんど鍬で砕かれ続けたと言っていい。

 清末、漢人の商業資本が、ロシアに吸い寄せられて、外蒙古の草原に進出した。
 清国商人の草原への進出を誘いだしたのは、帝政ロシアの冒険商人だった。
 かれらのシベリアへの領有運動が、やがてモンゴル人の運命を変えることになる。
 近代とは「カネの世」のことである。
 「広域商業の世」ともいえる。
 人類における他の社会(たとえばヨーロッパや中国、あるいは日本)では、貨幣経済(流通経済)は、人智の発達を促した。
 それら他の社会では徐々に発達したため社会全体に免疫ができ、害よりも益が大きかった。
 一方、自給自足経済でやってきた社会ににわかに流通経済が入ると、劇薬が入ってきたように人々のほとんどが落魄してしまう。
 19世紀のモンゴル遊牧社会はまさにそうで、貧困が草原をおおい、牧畜という、唯一のよるべを失って流浪した。

 清朝は1911年10月の辛亥革命をもって倒れる。
 その最末期における草原への入植製作は、「遊牧の否定」といえるほどにむごかった。
 これにモンゴル人は反抗した。
 清国政府はこれを「蒙匪:モンフェイ」とよんだ。
 清国政府にも、言い分はあった。
 漢人を入植させることで、これを屯田兵のようにし、膨張するロシアの南下を防ごうとしたのである。
 モンゴル人の反抗は広がった。
 清国はこれに対して、兵力を出して鎮圧した。
 20世紀初頭の清国政府の用語で”蒙匪辺患のそう靖”と呼んでいる。
 
 この弾圧が、外モンゴルにおけるモンゴル人をして、帝政ロシア側に走らせる結果になった。
 1911年秋に辛亥革命によって清国が倒れると、モンゴル人たちは、独立を宣言した。
 ただし、ロシアを頼っての独立であった。
 当時のモンゴル人は、この勢いに乗じて、中国に組み入れられている内モンゴルまで含めた「大モンゴル国家」の建設を願った。
 当時の帝政ロシアは中国に遠慮し、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。
 中国と交渉し、キャフタ協定(1912年)を結んだ。
 この協定が、いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原形になっており、モンゴル側も別段不服はなさそうである。
 キャフタ協定から5年後、今度は帝政ロシアが倒れた。
 モンゴル人には、漢人がすべて高利貸にみえる。
 彼らは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権にたよらざるを得なかった。
 曲折の末、1924年、ソ連についで世界で2番目の社会主義国家をつくるはめになった。
 彼らが、社会主義を選んだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、だだ中国人から草原を守りたかっただけだった。






 【習文:目次】 




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