2010年1月1日金曜日

: ロシアの特異性について


● 1986/06



 文明史からみて、ロシア人によるロシア国は、きわめて若い歴史をもっているこをを重視せねばならない。
 ロシア人によるロシア国家の成立は、わずか15、16世紀のことにすぎないのである。
 若い分だけ、国家としてはたけだけしい野生をもっているといえる。
 世界史を見わたして、広域社会(国家)の成立が古すぎる国(たとえばフランスのような)は、いい意味でも悪いいみでも、蛮性を希薄にしている。

 その(チンギス汗・モンゴル)の勢力は西方へ延び、イスラム圏を火のように焼き尽くし、諸城市の文化のにはいてだった職人たちを連れ去り、工学的なものや工芸的なものをつくらせた。
 モンゴル人の誇りは、風変わりなのである。 
 まず、農耕しないこと、ついで工芸品を作らないこと、でした。
 それらは卑しいことと思っており、農業というものについては、農民から作物を略奪すればよく、工芸・工業については、その職人ぐるみ連れ去って自分たちに奉仕させるというやりかたをとった。
 人間というのは、ある歴史段階である条件群を与えれば、いつでもチンギス汗の軍隊たりうるということを忘れるべきではない。

 バトウ大汗(チンギス汗の孫)の征服郡は、在来のモンゴル式騎兵戦法のほかに、攻城に対しては、工学的方法を用い、投石機その他城塁破壊機を用いた。
 モンゴル人は、実に唯武的でした。
 ----かって見たこともない攻城用の新兵器のため、集団の命を守る唯一の設備である城塞もてもなくこわされてしまう。
 「石弾を飛ばす」
 というこの機械はおそらく中国人の発明かと思われますが、のちの大砲の先祖にあたるでしょう。
 さらにモンゴル軍は火薬も用いました。
 モンゴル軍がロシアを攻めた30年後に日本の博多にやってくるのですが、このとき鋳物の殻に火薬を詰めた「大型手投げ弾」を鎌倉武士に対して用いている。
 中国では「震天雷」と呼ばれたものである。
 日本側はこれを「てっぽう」と呼んだ。
 のち小銃を「てっぽう」と呼ぶが、そのはじめは銃でなく右の「手投げ弾」のことでした。

 ロシア平原に居座った、いわゆるキプチャク汗国(1243---1502)により、以後ロシアにおいて、「タタールのくびき」といわれる暴力支配の時代が、259年の長きにわたって続くのである。
 チンギス汗が考案したモンゴル軍の軍隊組織は、それまでの世界史のいかなる国の軍隊よりも合理的で、数量把握ががよくいきとどき、命令による進退も軽快にできてい。
 まことに組織そのものが機械のように精妙だった。
 ただモンゴル側にとって残念であることは、モンゴル人の人口が少ないことであった。
 おそらく男子人口は百万を超えることはなかった。
 ロシア支配のために、パトウにわけられたモンゴル兵は「元朝秘史」によれば、千戸隊が4個だったという。
 1万人たらずと見ていいだろう。
 1万人足らずが、広大なロシア平原を支配したのである。
 
 外敵を異様に怖れるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だとおもえなくはない。

 やがてモスクワを中心に、ロシア人のロシア国家が膨らんでゆく。
 さまざまな曲折を経て、ロマノフ朝という専制皇帝を戴く王朝が成立するのは、17世紀はじめである。
 日本でいえば、大阪城落城の直前のことである。
 ロシア貴族(皇帝を含む)は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地の上に載っている農奴も私物でした。
 農地・農奴は持ち主の貴族の意思によって売買されます。
 同じ土地でも、農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下が決まるのです。
 帝政末期のロシアは、農奴にとってとても住めた国ではなかったのです。

 情報と命令伝達のために、とびきり制度のいい駅伝制(ジャムチ=モンゴル語)が、首都サライから四方八方に伸びていた。
 キプチャプ汗国の権力は、一万のモンゴル騎兵と、このジャムチが支えていたともいえる。
 ジャムチの制度は、その後のロマノフ王朝にも継承され、広大な国土を維持するための最も重要な'機能を果たした。







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