2010年3月16日火曜日
★ Brain Valley ブレイン・ヴァレー:瀬名秀明
● 1998/04[1997/12]
『
1970年代後半から80年代にかけて、癌の解析が飛躍的に進んだ。
DNAやRNAを取り扱う遺伝子工学の技術が飛躍的に進歩したためである。
目的の遺伝子を捜し出し、その塩基配列を決定し、さらにはその一部を人為的に変異させて作用の相違を観察する。
このような一連の操作を比較的簡便に行うことが出来るようになってきたのだ。
癌は細胞の増殖に関与する遺伝子やその制御シグナルが異常をきたすことによって引き起こされる。
癌遺伝子は世界中で争そうようにクローニングされ、その働きが調べられた。
その結果、癌関連遺伝子が非常に多岐にわたること、そして細胞の増殖機構に深く関係していることがわかってきた。
細胞内のシグナルネットワークがようやくその姿を見せ始めたのである。
一方、脳の研究は、癌や免疫のそれに比べると遅々としていた。
あまりにも難解で、どこから手をつければいいのか研究者自身もわからなかったのである。
1950年代になって、ワイルダー・ペンフィールドがてんかん患者の頭蓋を開き、脳に直接電気刺激を与えて何が起こるかを観察するという一連の研究を行った。
ペンフィールドの研究は脳研究の歴史のなかで大きな位置を占める偉大な功績であったが、人体実験ともとれるこの方法は自主規制されるようになり、やがて研究対象はネズミやサルに移ってゆく。
時代が進むにつれて、脳研究を行う際の難問が次第に明らかになってきた。
脳の大きな特徴は、一つ一つの神経細胞の活動が、統合されて意識や情動の」ような規定しがたい大きな状態を作り上げていることにある。
ミクロとマクロの視点が必要になってくる。
これがたの生物化学の分野と明らかに異なる点であった。
神経細胞内の物質の動きというミクロの問題を、どのようにして脳の高次機能というマクロな問題へと連結させていくか。
研究者たちはそれに回答することができなかった。
具体的な問題としては二つあった。
一つは、モデル実験が極めて困難であること。
神経細胞一つを取り出しても脳全体の働きを把握することはできない。
人体実感が不可能ならば動物を用いるしか方法はない。
動物はこちらの質問に答えてくれない。
脳を刺激し、いま何が見えているかと尋ねることはできない。
免疫や癌の研究であればある程度モデル動物を用いた実験で代用が可能であるのに対し、脳の研究では単純には話は進まない。
もう一つは、脳機能を測定し解析するための有用な技術がほとんど存在しないということであった。
脳波や神経細胞の電気的興奮を測定する程度しか方法がない。
笑ったり泣いたりしているときに、脳のどの部分がどのように変化しているのか、観察することができないのだ。
測定手段を持たないものは研究対象として成立しがたい。
結果と原因をつなぐ論理的な解釈を与えることができないからである。
癌や免疫の研究がピークを過ぎたころ、研究者たちは次にクローズアップされるテーマは何かと考えるようになった。
そして多くのものが、これからは「脳の研究」だと直感したのである。
また社会もそれを要請していた。
幸いにも、癌研究の発展につれて、脳の研究は新たな時代に入っていった。
遺伝子の研究技術が進んだことにより、脳機能を遺伝子レベルで解析できるようになったのである。
一方、工学分野の劇的な進歩により、脳機能の解析装置が飛躍的に発達した。
脳内に発生する極微小の時期を測定できるようになったために、脳のどの部分が反応しているかをおおまかだがある程度見て取ることが可能になりつつあり、記憶や情動などこれまで手のつけられなかった脳の高次機能の研究に道が拓けたのだった。
ミクロとマクロを解析する手段がようやく成熟し始めた。
多くの研究者が、これからの脳研究は遺伝子とコンピュータに接近していかなければならないと感じていた。
これから研究成果が続々と発表されてきる。
それらを統一し、容易に検索できるデータベースが必要だった。
精神疾患の原因となる遺伝子を解析するためには、ヒトゲノム解析計画のデータも必要になってくる。
他分野のデータと即座にリンクできる環境を整備しなければならない。
また、脳の機能を研究するのは脳の構造を視覚的に表現する技術が必要不可欠である。
コンピュータフラフィックスを用いて、どの部位が反応しているかを確認できるようにしたい。
さらに、脳の記憶のメカニズムが理解できれば、脳を模したコンピュータを作り上げることができるかもしれない。
今後の脳研究は神経科学者だけが行うのではなく、遺伝子やコンピュータ工学の専門家と連携して進めることが重要だった。
』
【習文:目次】
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