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● 1998/03
『
戦後や高度成長期には公共事業を行えば波及効果、乗数効果が大きいからただちに景気回復につながった。
しかしそれは日本が開発途上でインフラの整備が遅れていたからである。
いまや経済大国となり、成熟社会になった以上、古典的な支出が効果を発揮するするはずがない。
問題はお金の使い道であって、政府が景気対策でお金を使うことの是非ではない。
利用者がほとんどいない道路や考案を整備したところで経済効果がないことははっきりしているのである。
しかし、社会資本を整備する必要がある分野はいくらでもあるし、将来に向けた情報化投資は、まだまだアメリカに大きく水をあけられている。
ところで、市場とは一体何だろう。
市場は利害関係者がそれぞれの思惑に基づいて値段をぶつけあい価格を決めていくことである。
市場を考える上で「2つ」のことが大切である。
第一に「市場価格は絶対的」である。
つけた価格が期待はずれなら、それを反省して次の対策をとればよい。
「市場は間違っている」、理不尽だと文句をつけても仕方ない話で、こういう市場の機能を否定する考え方は、傲慢で自己反省の機会を自ら失うだけのことにしかならない。
第二に「市場は世界に開かれた窓」である。
いまや経済は国際的な枠組みの中で動く。
外国で起きた出来事がすぐに日本へ跳ね返ってくるし、逆もまたしかりである。
絶えず国際的な視点からものを考えなければならんしし、国際的なルールを尊重する必要がある。
この2点から考えれば1980年代後半からの円高は、冷淡にいえば身からでたサビで、日本人が自ら作り出したものだということがわかる。
市場は海外とつながっており、市場を通して海外の評価にさらされている。
百戦錬磨、プロ集団の海外投資家やビジネスマンをごまかすことはできない。
ハゲタカのような投機家にスキを見せた方が負けである。
国際社会の中で仕事をするということはそういうことである。
多少のミスには目をつぶってくれる私たちのような寛容な社会ではない。
「国際化」というのは、こういう激しい競争にさらされ、その中で「勝ち残って生き延びる」ということである。
市場は国際化の試金石だし、国際化の戦場だ。
それにしても、私たちはこんなことも考えもせず、余りにぬるま湯の中でぬくぬくと暮らしすぎたようだ。
それでは今、私たちは何をすべきなのだろうか。
アメリカの大恐慌を例にとれば、
第一に、大恐慌はついに平和的解決方法を見出すことができず、第二次世界大戦によってしか解決できなかった。
第二に、当時の超低金利が1937年から戦後の1948年まで、あしかけ12年続いたように、問題を克服するには気の遠くなるような時間が必要なのである。
アメリカの景気を立ち直らせたのは、結局のところ戦争だった。
「恐慌中の恐慌」となった1937年に、金利は1%にまで下げた。
日銀が0.5%に下げるまで世界史上最低だった水準が、このときのものである。
しかも、この1%という低金利が、1948年に終止符を打つまでに12年も続き、このときもわずかに1.25%にとどまっている。
デフレの罠から逃れるためにはどうしたらよいのか。
実は「これで大丈夫」といった適当な答えはない。
先にみたように、世界的デフレは「戦争によってしか解決できなかった」。
適当な前例がないということは、自分たちで考えるしかないということである。
これは他所の国の人にとっても同じことである。
海図なき航海に毅然として立ち向かうしか、ほかにないのである。
日本は否が応うでも国際政治や安全保障の問題で、大国にふさわしい役割を果たすように求められてきている。
問題を先送りすればするほど深刻になっていく。
結局は時間との競争になる。
私たちの社会は高齢化がものすごい勢いで進んでいるから、新しい時代に向けて準備するに時間的余裕は残されていない。
頼りにしているアメリカがいつ崩れて日本が吹き飛ばされるかわからない。
私たちは時間の競争に迫られているのだ。
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【習文:目次】
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