● 2000/06[1995/06]
『
イタリア人は陽気、というのが一般的なイメージだけど、実際付き合ってみるとけっこう屈折していて考え込むタイプの人が多い。
いわゆる、ネクラである。
インテリはデカダンに、一般人はイタリア式苦難に満ちた日常生活の問題に、それぞれ考え込まないといられない毎日のようだ。
しかし、あまりに悩みの種は多くて、いちいち深刻になっているときりがない。
それならばとりあえず、暗く落ち込むのは先送りにして、この瞬間だけでも楽しんでおこうか。
ということで、たいていのイタリア人は表面的に明るくタフなのである。
時には、必要以上に。
こんなに苦労が絶えない国に住んでいる限り、刹那的にならざるをえない。
<ドルチェ ヴィータ(=甘い生活)>というわけにはいかないよ。
食事に呼ばれて呼んでを繰り返すうちに、相手がいつもハイな状態ばかりでないことがわかり、弱い部分が見えてくる瞬間がある。
いったん<その瞬間>にたどりつくと、あとは堰を切ったようにグチが、悩みが、哲学的迷いが次々と湧き出して、それは止まるところをしらない。
そうなると食卓は、一気に互いの<不幸比べ>の場と化し、本当にイタリア人て暗いなとため息が出るばかりとなる。
さて、数をそれなりにこなすうちに、食卓での話題の展開はたいてい決まったパターンがあるらしいと気がついた。
まるでマニュアルに沿うがごとく進行するので、高みの見物の気分で聞いているととても楽しい。
食事開始。
各自の近況報告的な話題、
他人の噂話、
新情報、をひとしきり話した後、
現在の政治状況がいかに堕落していて、何がどうだめかの話になる。
これは文化度の高低を問わず、必ず大討論になる。
口角あわを飛ばし、とはまさにこれ。
その音量の大きさたるや、耳をつんざくばかりである。
というのも、全員が興奮して、意見をほぼ同時に言い合うから。
さらにそういうとき、イタリアでは暗黙の了解で声の大きい人が発言権を得ることになっているらしい。
相手を制して自分が先に話そうとするため、音量はエスカレートする一方。
最後は声がかれてしまっている人もいて、たいそうなことこの上もない。
「イタリア式食卓会話」に馴染みの薄い外国人など、こういう呶鳴り合いには怯えきってしまう。
喧嘩にしか見えない。
それぞれ言いたいことを言い合ってすっきりしたらその次は、どれだけイタリアが、そして自分たちイタリア人が、さらに己が、いかに情けない存在かについての嘆きの洪水が始まる。
延々と続くが愚痴り方にも個性があって、まるで芝居を見るよう。
あまりにも清国に嘆くので、そんなにイタリアは危ないのか、そんなにあなたは苦しいのか、と一度心配になって尋ねたことがある。
「
ハツハツハツ。
心配するな。
深刻ぶったり、被害者ぶったりするのが、僕らは好きなんだ。
」
だそうで。
』
[◇]
大きなモールには各国のレストランが軒を連ねている。
レストランといえば中華とイタリアンがもっともポピラー。
そしてうるささもこの2つ。
中でも他を圧倒的に引き離して、とてつもなく騒々しいのがイタリアレストラン。
はた迷惑な「夜の大騒音」といってもいいほど。
日本風の「食事は静かに楽しむもの」なんてのは何処吹く風。
まるで時間の空白に恐怖しているがごとく。
一時の静けさですら、地獄に落ちるかのごとく感じる人種なのかとも思ってしまう。
群れていないと寂しくて寂しくてたまらない、といった風。
個性の表出というよりも、心理的空白を埋めよう埋めようやっきになっているようにも見える。
埋めても埋めても、次から次へと空白が滲み出てきて、ひたすら駆けて続けている。
この騒がしさに顔をしかめて、イタリアレストランの周囲にはお客は近寄らない。
イタリア租界の雰囲気が濃厚に周囲を覆ってしまうのだ。
この風景を見ると、イタリア人は陽気というより、「寂しさの裏返し」の方が正しい表現のように思えてくる。
日本人の対極に位置する特異人種である。
ちなみに、この街のステーキで一番おいしかったのは、無愛想で無口の怖そうなオバサンと、それをとり返すかのようにひじょうににこやかで愛想のいいオジサンがやっていた小さなイタリアレストランのものであった。
【習文:目次】
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