2010年3月8日月曜日

: 「危機感」

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● 2002/06



 古代から、中国外交のやり方は「冊封(さくほう)」とやばれるシステムをとっていた。
 これは中国皇帝が周辺国の君主を家臣(王)として認め、中国が必要とする兵力などを出す代わりに、自国が他国から攻められた場合は中国が援軍を送る軍事同盟を結ぶとともに、中国との間で貿易を行う制度だった。
 中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされる品々を贈った。
 周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。
 冊封体制は、唐の時代まで中国が移行の基本体制だった。
 が、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制はとれず、その次の元の時代にはモンゴルという異民族による支配だったため採用されなかった。
 冊封体制は、明の時代に復活し、永楽帝の時代に拡大された。
 朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)などの古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ冊封国となった(足利義満が冊封をうけたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれているが)。
 鄭和の大航海は、この冊封体制をさらに世界に広げるものだった。
 財宝を船に積んで東南アジア、南アジア、中近東からアフリカまでの国々に配って回ったのである。
 これは元の時代のように中国を貿易帝国として復活させる試みであったと思われる。

 ここで一つ、疑問が生ずる。
 中国は「近代化」に失敗したのに、日本は明治維新をやって近代化に成功できたのは、どういう違いによるものなのか、という疑問である。
 私は、その理由の一つは「危機感」を感じることができたかどうか、という違いだったのではないかと考える。
 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことは、「冊封」で考えた中国の清朝にとっては大して危機感を抱かせるものではなかったが、日本の江戸幕府にとっては大事件として受け止められた。
 
 江戸幕府は徳川家康以来、外国の動向にすこぶる敏感であった。
 江戸幕府が成立した時代は、ポルトガルやスペインの船が日本に到着し、九州や京都の大名たちがキリスト教に改宗する事態となった。
 徳川家康や豊臣秀吉は、ポルトガルやスペインの力を借りた大名らの勢力が拡大することを怖れて、キリスト教を禁じ、江戸幕府は外国との交流窓口を幕府統制化の長崎に一本化した。

 日本の歴史をみると、海外からの技術は常に九州などの西国から入ってきたが、鎌倉から江戸に至るまでの歴代の幕府は常に東国の勢力だった。
 天下をとった東国の勢力は、西国の勢力が外国の武器や技術を取り入れて強くなることを警戒し、その帰結が江戸時代の「鎖国」だったと思われる。
 つまり鎖国とは、国外からの情報を幕府が独占するための政策であり、幕府はそれだけ外国の情報に敏感だったとことになる。
 だから鎖国していても、アヘン戦争で中国が負けたことは、「次に狙われるのは日本だ」という危機感をもたらした。

 また、隣の朝鮮は長く中国の冊封体制下にあり、中国の指示に従っていれば、国は安泰であった。
 それに比べ、大陸から離れた島国だった日本は断続的にしか冊封体制の中に入っておらず、中国の動向は海外動向の一つとしてウオッチする対象だった。
 アヘン戦争後、日本は明治維新によって近代国家に変身し、国民皆兵によってヨーロッパ並みの戦争力を身につけたが、朝鮮の王宮では中国の方ばかり見ていたため、近代化の必要性に気づくのが遅れ、帝国主義国となった日本の植民地にされてしまった。

 日本は1894年の日清戦争で清朝に勝ち、台湾を植民地とし、朝鮮を冊封体制から外して日本の影響下に置いた。
 1895年、日清戦争で清国を破った日本は、清に台湾を割譲させ、第二次大戦でまける1945年までの50年間、台湾を領有し、植民地として統治した。
 この間日本は抗日運動を徹底的に取り締まり、公的な場での台湾語を禁止し、日本語や日本風の生活を台湾の人々に強要した。
 日本人を一等国民、台湾人を二等国民として扱うという差別も強かった。
 だが日本は同時に、鉄道や道路、水道、電信などの社会基盤を整備し、教育制度を整えていった。
 それが、後の台湾が発展する基礎になったのだが、このことは李登輝前総統が著書で述べるなど、台湾の
  「公式見解」
 となっている。








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