2010年3月8日月曜日
★ 米中論 何も知らない日本:「冊封」と鄭和艦隊:田中宇
● 2002/06
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歴史の教科書では人類で初めて世界一周をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だということになっている。
新説によると、世界初の世界一周をしたといわれるのは、中国の明朝時代に鄭和に率いられた艦隊だったという。
鄭和は1405年から1433年にかけて7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海したと伝えられているという。
カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大なふるい中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部であった可能性がある。
またベネチアでは1428年に、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していた。
この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経ベネチアに運ばれたという説もある。
そして「この地図を見た、コロンブスやマゼランらが、自分たちも航海して貿易で大儲けしようと考えたのではないだろうか」と言われてもいる。
鄭和の航海は、当時の明朝の国家的大事業であった。
第一回の航海の2年前、皇帝からの命令で造船所がつくられ、福建省では137隻、江蘇省では200隻の造船が命ぜられたという。
航海が始まった後の3年間には、さらに1,700隻の建造が進められた。
これらの船は最大で長さ140m、3,000トンの大型船だった。
マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか「80トン」、コロンブスがアメリカ航海で使ったサンタ・マリア号も「80トン(長さ24m)」であった。
中国はヨーロッパに比べて30倍以上も大きな船を造れたことになる。
当時の中国の造船技術そのものは、ヨーロッパよりはるかに'進んでいた。
大きな船の造船や修理にはドッグを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが造られていたのに対して、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。
造船技術だけでなく、技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。
ところが、そんな明朝の国家的大事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積された海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが、朝廷内の紛争で焼かれてしまった。
それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中に盛んに造船を奨励したのに、航海が終わった1536年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。
1500年には二本マスト以上の船を造ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すように命令が下った。
中国は、鄭和の遠征からわずか100年で、「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。
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【習文:目次】
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