2010年3月4日木曜日

: 「デフレ」とは

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● 1998/03



 「デフレの定義」をしておく必要がある。
 デフレとは、一言でいうと、「経済が小さくなろう小さくなろう」という動きである。
 経済が小さくなると、物価が下がり、失業の増大や金融不安といった社会的混乱を伴う。
 アメリカの大恐慌のときには、経済活動が半分近くに落ち込み、4人に1人が失業し、卸売物価が30%あまりも下がり、銀行は多数倒産して金融不安となり、そして、国際経済では貿易も金融も崩壊した。
 デフレは単に景気が悪いとか、物価が下がり続けるとかいった個別の動きだけでなく、こうした動きが絡み合って、全体として経済が縮小する動きだ。

 日本の場合、金融機関に限らず、個人も企業も政府も、生活や経営や財政を立て直すために切り詰め、整理に必死だ。
 消費を切り詰めるからモノが売れない。
 そこで企業はリストラを進め、人件費を抑制するから労働者の実入りは少なくなり、ますますモノを買わなくなる。
 こういう悪循環、「悪魔のサイクル」に入ると、経済全体が収縮しよう収縮しようという動きになる。
 こうした構造がデフレであり、日本はこんな形ですでにデフレの罠にはまってしまった。

 日本経済は、バブル崩壊の後始末と構造改革を同時にやらなければならないという重荷を抱えている。
 「構造改革」というのはこういうことである。
 日本は1985年のプラザ合意で、経済大国として世界経済の運営にも責任を持つことを約束した。
 経済規模が大きくなると、経済も社会も質的変化を迫られる。
 図体がでかくなればそにぶん外との接点が増えてくる。
 つまり否が応うでも、国際化の波を浴びることになる。
 こういうプロセスの下で、経済は「外需依存」から「内需依存」の構造転換が迫られた。
 また、社会構造も「小さな、閉鎖的村社会」から、「大きな開放的都会」への転換が迫られた。
 俗っぽい言い方をすれば、
  「お互いが傷をなめあって優しくいたわり合う社会」から、
  「弱肉強食の、論理や力が勝つ冷たい社会
 へ移ることを余儀なくされたのだ。

 ところが、日本はこの国際公約、世界に対する約束を反古とまでいわないにしても、ほとんど無視し続けてきた。
 市場開放も、規制緩和も、お座成りの対応でしかしなかったために、貿易摩擦を繰り返しながら異常な「円高」を招いてしまう。
 その結果として、「バブル経済」へと向かっていくことになった。
 「円高」は日本人の感情からすると、「外から押し付けられたもの」だが、世界から見れば日本は身勝手で円高を「招いた」だけのものだった。
 よって、「バブル」も、「バブル崩壊」も皆、日本の「身から出たサビ」だった。
 しかし、日本人にはこのことが意識されないから、いつになっても構造問題に目がいかない。
 いまだに経済はアメリカ頼り、輸出依存で息をついている。

 こうした社会や経済の構造転換は容易なことではない。
 アメリカは規制緩和などによる構造改革が実を結ぶまでに、レーガン政権以来10年以上を要している。
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