2010年7月29日木曜日
★ アメリカ 歴史の旅:村垣淡路守の日記:猿谷要
● 1987/03[1977/**]
『
「
やがて蒸気が盛んになり、今や走りだそうとする。
かねて眼も回ると効いていたので、いかがあらんと、船とは変わっているうちに、すさまじい車の音がして走りだした。
すぐと人家を離れ、しだいに遠くなるにつれて、車の轟音は雷のひびきのごとく、左右を見れば、三、四尺のあいだは草木も縞のように見えて見止らず、七、八間先を見れば、それほど眼の回ることもなく、走る馬の乗っているようだ。
少しも話が聞こえず、殺風景のものである。
」
これは、日本人が集団で蒸気機関車に乗った最初の記録といえる。
1858年(安政5年)に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書を交換するため、アメリカから回された船であるポーハタン号に乗って、1860年(万延元年)2月に日本を離れた使節団の一行が、パナマで生まれて初めて蒸気機関車に乗ったときの記録である。
乗ったのは、使節団77人のうち、サンフランシスコで病気になった一人を除く76人で、筆者は使節団の副使、村垣淡路守、当時48歳で、日付は4月27日(以下陽暦)となっている。
先行した咸臨丸は、艦長に勝麟太郎、軍艦奉行の従者に福沢諭吉、通訳に中浜万次郎という面白い組み合わせだったが、こちらの方は太平洋岸に到着しただけで帰国しているので、集団でアメリカ文明の衝撃を受けたのは、村垣ら一行76人の方であった。
ワシントン最大のウイラード・ホテルに泊まったので、生活ぶりも混乱をきわめる。
村垣淡路守の日記によると、
「
この家(ホテル)は方一町もあるべし。
四つ辻の角で、5階造りの大家、美麗をきわめている。
正使の新見豊前守とおれは合い部屋で、15畳ばかりの席である。
霊の花毛氈を敷き、椅子がおいてあるが、これは片付けて、座布団を敷いて座った。
」
また従者の一人、加藤素毛の『二夜話』には次のような部分がある。
「
浴槽は長持ちのような箱で、白銅が張ってある。
ねじが二つあって、一つをひねれば熱湯が出、他の一つからは水が出る。
両方一時に開いて湯と水の加減をしてから浴槽に入って座ると、浅いのでヘソのあたりまでしか湯がない。
後で聞くと、寝て前を洗い、うつぶせになって背中を洗うのだそうだ。
天井に蓮の実のようなものがあり、ねじをひねると清水が滝のように落ちてくる。
」
さて、5月17日、いよいよホワイトハウスを訪ね、批准書を交換することになった。
アジアから来た珍しい一行を眺めようと、ホテルとホワイトハウスの間は人波で埋まり、よい場所はプレミアがついたほどだという。
ホワイトハウスでは、狩衣や鳥帽子、鞘巻きの太刀などに威儀を正した日本の代表たちが、民主党の大統領ジェームス・ブキャナンに国書を奉呈する。
こういう席上にも大勢の女性が列席しているので’、日本代表たちはびっくりした。
その日の村垣の日記。
「
かくて夕方帰る。
集まって今日のありさまを語り合った。
大統領は七十余の老翁、白髪温厚で威儀もある。
しかし、商人と同じ姿で、黒ラシャの筒袖、股引は何の飾りもなく、太刀も持たない。
……合衆国は世界一、二の大国であるが、大統領は総督で、4年ごとに国中の入札で定めるよしであるから、国君ではないが、御国書も与えられたことであるので国王の礼を用いたが、上下の別もなく、礼儀も少しもないので、狩衣を着たのも無益であったと思う。
」
ズボンを見て股引と思ったのだが、当時の日本の常識から考えると、この日記のようなことになったのであろう。
さて一行は、大統領招待の晩餐会や舞踏会に出たり、各地の見学に出向いたりして手厚い歓迎を受けている。
国会議事堂を見学したときの村垣日記には、次のような面白い部分がある。
「
正面の高いところに副大統領、前の少し高い台に書記官二人、その前に椅子を丸く並べ、それぞれ机、書籍をたくさん置き、およそ四,五十人も並んで、そのうちの一人がたって大音声にののしり、手まねなどして、狂人のごとし。
何か云い終わって、また一人立ち、前のごとし。
何事なるやと聞くと、国事は衆議し、各意見を残らず建白するのを、副大統領が効いて決するよし。……
2階に上がって、またこの桟敷で一見せよというので、椅子に腰掛けて見る。
衆議の最中なり。
国政の重要な評議であるが、礼の股引をつけ、筒袖を着た姿で、大音でののしるさま、副大統領の高い所にいる有り様などは、わが日本橋の魚河岸の様子によく似ている、とひそかに語り合った。
」
村垣淡路守はこうして遠慮無く自分の尺度で相手を酷評したが、各地におけるアメリカ人の歓迎ぶりはなかなか熱狂的で、ニューヨークに一行が着いたときには、それが最高潮に達した。
使節団の泊まったホテルの前では歓迎パレードが展開し、参加した軍人の数だけでも6,500人に及んだという。
』
【習文:目次】
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