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刈谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』の中で、
「学歴社会論とは、ある意味で皮肉な議論である。なぜなら、学歴社会に対する批判が高まれば高まるほど、人びとは学歴の価値を再認識し、より高い学歴を求めて行動するようになる」
と、書いている。
学歴社会批判を耳にした人は人々は、一方で学歴社会は悪いと思うが、その一方で自分自身や自分の子どもにはより高い学歴を目指す、というのだ。
私は学歴社会批判や学歴無用論は根拠がないし、心理学の立場からいうと「嫉妬」がその源泉になっている部分が大きいので、あまり好ましいとは思わない。
「学歴社会論という伝説」がみんなが信じてくれたことは、教育の動機づけとしては非常に役に立ったという刈谷氏の指摘は、誠に的を射たものだと感心している。
いま、教育の世界で起こっていることは、これとはまったく逆なことなのである。
バブル崩壊以後、日本は能力主義になり、学歴社会はなくなったと言われている。
東大をそつぎょうしても退職まで安心できず、いつリストラされるかもしれなくなった。
会社はいつ潰れるかもしれない。
企業は学歴社会への批判を受けて、新規採用時でも学歴不問になったし、大学別の採用枠も取り払われた。
日本でもようやく学歴社会が終わり、実力中心の社会になったと、財界までも含めてマスコミはそう報道している。
しかし、実態はそうではない。
各社の採用実績をみれば、東大、兄弟、一橋大、早稲田大、慶應大などの一流大学ばかりを並べている企業は少なくない。
学歴は問わないが学力試験を課すことで、結果滝に学歴の高い学生しか採用しないようにしているのだ。
ベンチャー企業にしても事情は似たようなものだ。
ソフトバンクの孫正義社長はカリフォルニア大学バークレー校。
ライブドアの全社長堀江貴文氏も東大。
楽天の三谷浩司社長は一橋大からハーバード大学に留学してMBA(経営学修士)を取得している。
ベンチャー企業は高学歴でないと起こせないのである。
起業がもてはやされているが、現実には学歴がない人の参入余地は非常に狭いのである。
今後はむしろ、有力遺伝子ベンチャーを立ち上げた大阪大学の森下竜一教授のように、大学教員でありながらバイオベンチャーを立ち上げ、創業者利得で40億円を稼いだといった人が増えることになってくるだろう。
ちょっと前までは、高卒と大卒ではそれほどに初任給の差はなかったが、いまでは高卒で正社員に採用してもらうことさえも難しくなっている。
二流大学以下だと正社員の就職率が半分を切っているところもあるという。
段階の世代が一気に退職する2007年で一時的に就職がよくなったとしても、それを過ぎれば、大学を出ていても正社員での就職すら危なくなってくる。
まして高卒では、かなり難しいい、ということが起こりつつある。
初任給の差が、などという悠長なことは言ってはいられなくなっているのである。
もちろん学歴だけで年収格差が極端につくわけではない。
高学歴とは、あくまで必要条件に過ぎない。
その上で成功者にならなければならないというもの事実だ。
2005年11月のなくなったアメリカの経営学者、ピーター・ドラツカーは、現在のアメリカの経済発展の理由の一つとして、「製造業から知識労働への移行が終わった」からだと分析した。
彼は情報化社会や高度情報化(IT)社会という言葉が使われるはるか以前から、
「21世紀は知識社会になる」
と予測していた。
「知識社会」とは、知的労働者が「社会の主役」になるもので、知識が富を生み、社会を活性化させる社会だ、どということである。
そこでは、「サービス労働者」とは、言われたことをよくこなす人を指す。
これに対して「知識労働者」とは、医者や弁護士のような専門職や知識を主なる生産手段として仕事をする人を指している。
彼はまた、
「知識社会では、サービス労働者と知識労働者の格差は広がる」
とも述べている。
言われたことをこなすだけの単純な労働者は、低コストの外国人労働者や機械やソフトウエアに置き換わっていくからだ。
日本人であれば400万円かかるところが、外国人労働者に置き換えられれば250万円ですむという状況であれば、それに代替可能な日本人の労働者賃金も下がっていかざるをえない。
さらに、機械やコンピュータで置き換えられるのであれば、外国人労働者すらもいらなくなってくる。
そういう労働者と同じ仕事ができて、10年間24時間使えるロボットが1千万円で買えるということになると、年収250万円でも200万円でも雇ってくれなくなる。
つまり、知識社会とは、進めば進むほど、システムや機械への投資で代替できる仕事はそちらにまかされ、人間が不要になってくる社会である。
結果的に言うと、教育レベルの低い人のできる仕事はなくなってしまう、ということである。
知識社会になったとしても、教育レベルの低い層をたくさん抱えている社会は、その人たちに職を与えなければならない。
極端な言い方をすればロボットで代替できることが自明であっても、低教育レベル層を雇わねばならない。
そうしないと失業率が高くなりすぎて社会の安定が脅かされるからだ。
つまり、一般大衆の教育レベルの低い社会は「コストが高く」なりすぎる。
逆に知的レベルの高い人を多く抱える社会ほど、富を生むことになる。
知識社会といっても人手が必要な仕事は残るから、そういう職場ではパソコンが使えなくていいだろう、と考える人もいるかもしれない。
が、そういうわけにもゆかない。
そういう仕事でも、パソコン画面をいじりながら請求書を書く事が求められて」いるのである。
「教育レベルの低い層を抱えておくことができない社会」が知識社会と言っていいだろう。
つまり、国全体の教育レベルが高ければ高いほど、ビジネス環境がいい国、になるということになる。
デンマークが世界で一番ビジネス環境がいいと評価されているのは、高い教育を受けた人がたくさんいるからではない。
教育レベルの低い層が極めて少ないということである。
実際、デンマークやフィンランドではエリート教育はそれほど充実しているわけではない。
しかし、大衆全体が賢い社会、あえて言えば
「馬鹿が少ない」
ということが、基本的な国の力になっているのである。
それに比べると、かっては日本も「バカの少ない国」であったが、現在では、4割もの勉強しない子を放ったらかしにしている、常識的に見て異常な国になってしまっている。
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【習文:目次】
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