2010年7月13日火曜日

★ ユダヤ製国家日本:杉原千畝にまつわる経緯


● 2006/01



 今日、日本では杉原千畝(ちうね)が東京の外務省の方針に版して、ユダヤ人難民を救うために、ビザを個人的な裁量をもって発行し(1940年)、そのために戦後、外務省を追われたと広く信じられている。
 しかし、これは誤っている。
 杉原はカウナスでユダヤ人難民のビザを発給するに当たって、疑念がある場合には、しばしな事前に本性に許可を求めている。
 外務省にはこれらの「公電記録」が残っている。
 ビザの発給は個人的裁量において行ったものではなく、本国政府の方針に大筋において沿ったものであった。
 杉原が本省の訓令に違反して、ビザを発給したために処分された事実も、どこを捜してみても、まったくない。

 外務省の記録によれば、杉原がリトアニアにおいて難民に対してビザを発給したなかで、外人入国取締規則が規定していた、行き先国の入国許可と旅費と日本滞在費を所持していること、という条件を満たしていなかった者があったために、本省から注意を受けたことがあった。
 しかし、本省が出先に対して注意することは珍しいことではなく、杉原は一度として譴責処分を受けていない。
 ヨーロッパにあった日本大使館や、領事館も、多くのユダヤ人にビザを発給していた。
 杉原だけが、ビザを発行していたわけではない。

 杉原は外務省に下級の通訳官として入省した。
 通訳官は「属官」と呼ばれる、いわゆる下積みの"ノンキャリア"だった。
 杉原はカウナスからチェコスロバキア(当時)のプラハ、つぎにルーマニアのブカレストへ転勤して、1943年(昭和18年)に、在ルーマニア公使館に勤務中に、三等書記官に昇進した。
 領事館員はウイーン条約によって、外交官としてみなされておらず、三等書記官に任命されたことによって、杉原ははじめて晴れて外交官となった。
 
 その翌年、すなわち1944年に、杉原はそれまでの功績によって、「勲五等瑞宝章」を授けられている。
 日本政府は杉原がユダヤ人難民にビザを発給したことを、まったく問題にしてはいない。
 もし、杉原がどのような形であれ、勝手にビザを発給したために、本省より処分を受けていたとしたら、叙勲の栄誉に与るようなことは、ありえなかった。

 終戦とともに、日本政府はアメリカ占領軍の下で、外交権を否定され、一切の外交機能を奪われることになる。
 そこで外務省は機能が’大きく縮小されるのにしたがって、人員整理をすることになる。
 このもとで、多数の職員が依願退職の形をとって、外務省を去っていった。
 外務省の定員は昭和21年に「1,260人」であったが、翌22年には「1,563人」まで整理される。
 つまり、1/3の職員が退職することを求められたのである。
 杉原もその中の一人にすぎなかった。
 当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に精励したことに感謝する私信と、特別に金一封まで贈られている。
 このとき、杉原とともに700人近くが、同時に退職したのである。
 杉原が外務省を追われたというのは、作り事である。

 杉原千畝がビザを発給したことが、"日本のシンドラー"として、無理に美談として仕立てられた。
 これは、戦前、戦時中にわたる日本という国を、悪者にしたてようとする知識人・ジャーナリストたちの作為によるものだったのだ。
 もっとも、杉原の美談が戦前、戦時中の日本を不当に辱めるためにでっちあげられたものであっても、日本のイメージを世界的に良いものにしたとはいえる。
 杉原はエルサレムのホロコースト記念館の中に、特別にコーナーが設けられて、顕彰されている。
 イスラエルでは、杉原の肖像画切手となって、発行されている。







 【習文:目次】 



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