2010年7月13日火曜日
: 旭日大綬章 ジェー・エッチ・シッフ(ヤコブ・ヘンリー・シフ)
● 2006/01
『
日露両国の悪化にともない、開戦が避けられない状況となったと判断された。
そこで日本は戦費を、急いで調達しなければならなかった。
日露戦争がはじまると、その直後に当時の日本銀行副総裁だった高橋是清は、海外に日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに渡った。
だが、誰も日本の公債を引き受けようとしなかった。
高橋の訪米は徒労に終わった。
これはもっともな話だった。
当時のアメリカ人たちは、小国である日本と超大国であるロシアが戦って、日本が勝つことなど万に一つもありえないと、判断していた。
高橋は、次の目的地であったイギリスに向かった。
日本に投資するということになると、誰もが尻込みしたが、それでもようやくイギリスの銀行団に、「500万ポンド」の日本国債を引き受けてもうらう約束をとりつけた。
だが到底それでは足りなかった。
高橋は日本の第一回の戦時国債として「1,000万ポンド」を調達する任務を帯びていた。
これは日本の死活を左右するものであった。
日本の運命が高橋の双肩にかかっていたのだ。
高橋は途方に暮れて、あせっていた。
高橋はイギリスの銀行家の友人が自宅で催してくれた晩餐会に招かれて出席した。
その席の隣に座ったアメリカ人から、
「日本の士気はどのくらい高いのか」
といったことをはじめとして、多くの質問を受けた。
高橋は一つ一つ、できうる限り丁寧に答えた’。
翌朝、イギリスの銀行家が突然、テルにやってきて、前夜の宴会で隣に座ったアメリカの銀行家が
「日本の国債を引き受けよう」
と言っているといった。
高橋は驚いた。
前夜の隣席の人物が、「ヤコブ・ヘンリー・シフ」だった。
こうしてシフは、500万ポンドを引き受けた。
その後、日露戦争が終わるまでに日本はさらに3回にわたって、「7,200万ポンド」にのぼる公債を募集した。
シフはドイツなどのユダヤ銀行に呼びかけて、これを承諾させた。
戦争を通じて合計するとユダヤ人が全公債の「57%」を引き受けたのである。
言い換えれば、日本海海戦の東郷艦隊と、大陸で戦った日本軍の平気や弾丸の半分以上が"ユダヤ製"なのであった。
シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待された。
明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。
シフの訪日日記は、遺族が私家版の本として印刷、製本して、長いあいだ外に出ることなく秘蔵してきた
この小冊子は「われわれの日本旅行記」と題されている。
この日記によれば、シフ」は3月28日に、明治天皇の招きによって、皇居を訪れた。
日記には、やや昂奮気味に、「今日、ミカドに会う」と、書かれている。
明治天皇はシフに親しく接見され、このユダヤ人銀行家と昼食をともにされた。
今日でも、シフ家にこの時の招待状が所蔵されている。
シフは陪食を賜る前に、天皇に単独拝謁し、「旭日大綬章」を親しく授けられた。
招待状に「勲二等」と記されているのは、シフがすでに勲二等瑞宝章の叙勲を受けていたためである。
』
【習文:目次】
_