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もちろん、読書は「自分を映す鏡」です。
その鏡にはいろいろな意味や作用があるんじゃないでしょうか。
一つは、普通の意味の「自己反映」ですね。
読書は「無知から未知へ」と向かうのですから、読前・読中・読後に別自己反映をもたらしているといえます。
この鏡はどちらかというと分身的なものです。
ここには「非自己の反映」という視点も必要です。
免疫学は、自己形成には市松の「非自己」が関与することを証しています。
ジェンナーの種痘もそれを応用したものですね。
「ちょっとだけ、非自己を入れてみる」ことに」よって、それが「自己」という免疫システムを形成する。
ですから、ときには「変な本」も読んだほうがいいわけです。
二つ目の鏡は、精神医学者のジャック・ラカンの言うような意味での「鏡像的なもの」です。
ラカンは、人間の意識というものは社会的で体験的なものの投影になっていて、その順序がぐちゃぐちゃに意識の中に入っているため、鏡像過程が取り出せないでいる状態と見たわけです。
取り出しそうとすると、一義的なあるラインだけが取り出されて、うまく複合的には取り出されて、それが心の圧迫になったり、ストレスになったり、過剰な自信になったりしてしまう。
あげくに、読書世界にもその鏡像性が反映されて、残映しているというふうになる。
本には、そういった意味での自己鏡像的な性質があります。
三つめは、アリスの「鏡の国」のように、私たちが「日常では出会えない世界を映しだしている鏡」に出会えるということでしょう。
これはファンタジーとかSFだけがそうだというのではなく、読書体験そのものの根底にある鏡です。
アザーワールドを映しだす鏡です。
わかりやすい鏡です。
だいたいこういった3つの鏡があると思いますが、けれども、「本は人生の鏡だ」という見方は、あまりにも当たり前で、それほど刺激的とは言えません。
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そこにもちょっとした哲学があります。
哲学というのは大げさならば、確信のようなものです。
第一には、読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。
「癒し」というのではなく、アラインjメント、すなわち「整流」という風に言っています。
これはどんな本でもいいというわけではないけれど、ある程度のキーブックや「好み」が向く本なら、必ずそうなると思います。
なぜなら、読書は著者の書いていることを解釈することだけが読書ではなく、すでに述べてきたように相互編集なのですから、そこでアラインメントがおこるんですね。
第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり、「連想」であると思っている、ということです。
科学も小説も、人文も芸術も、思考や表現の本質の大半はアナロジーであり、類推であり、連想であると確信しているんです。
つまり、どんなことも堅く考えていないんです。
コンビネーション、組み合わせの技法ですね。
「類推の能力」です。
アナロジーこそが、ぼくをイノベーテイブにしてくれる。
第三に、ぼくの元気がでてくる源泉や領域は、みなさんには意外かもしれないけれど、必ず「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」だと確信しているということです。
規定された’領域や明瞭な部分と付き合うのは、ふだんはそれでいいけれど、自分がピンチになったり調子が落ちていたり、迷ったりしているときは、むしろその根底になっていそうな「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」に着目したほうが、元気が出るということですね。
ここには、ぼくの「負の想像力」という見方や「フランジャイルな観察力」という見方が深く関与しています。
ぼくは世の中も、自然界も、また能や思考も、それらはすべからく「複雑系」だと見ています。
部分をいくら足しても全体の特色にはならないし、全体がどのようにみえても、それから、部分を規定することもできない。
数学的にいえば、非線形ということ、ノンリニアだということです。
そのような複雑系では、どこかで水が氷になったり、もやもやした’雲がウロコ雲、イワシ雲になったりするような「相転移」がおこるフェーズがあります。
そこは複雑系の科学やカオス理論では「カオスの縁」などとも呼ばれているんですが、そこでいったい何が起こっているかというと、新しいオーダー(秩序)が生まれています。
言い換えると、新たな「意味の発生」ということです。
何かの「芽」や「根」があると、そこに意味が生まれる。
これを科学では「創発」とか「エマージャエント」というのですが、システムの分析からすると、「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」にこそ何かのオーダーが生じているということなんです。
このことを、ちょっと感覚的なことに当てはめて言いますと、「せつない」とか、「残念」とか「失望感」とか「気持ちばかりがいっぱい」ということにあたります。
つまり、ふつうは「負」の部分とか、「際」の状態だと思われているところに、意味が創発してくるのです。
ぼくは、そこがセンシテイブであるからこそ、それをバネにしていいと判断しているのです。
それが「負の想像力」や「フランジャイルな観察力」というもので、ぼくの読み書き世界の最もきわどいところで、たえず革新的な力を発揮しているところです。
言っておくべきは、「いい本」にめぐりあう確率は最高でも3割5分くらいがいいところでしょう。
普通は2割5分くらい。
その」確率をあげるためには「駄本」を捨てるようにすべきかというと、そうではなく、むしろ三振したり、見送ったものがあるという思いが重要になる。
どんどん空振りして、相手を褒めるつもりになったほうがいいんです。
それから、洋の東西を問わず、古典のほうが断然「きわどいもの」が多いということも指摘しておいたほうがいいでしょう。
江戸時代なんて発禁ものばかりでした。
だから版元はしょっちゅう手鎖りをうけていた。
まさに古典はリベラルアーツだということですね。
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【習文:目次】
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