2010年7月1日木曜日

: 「日本国憲法」の文章

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● 1995/05[1984/11]



 ある種の感覚の持ち主から見れば、明治憲法の文章は確かに名調子なのかもしれません。
 それは何かすごく「ドス」が利いて、口調がよくて、颯爽としていて、「景気がいい」ような感じがするかもしれない。
 しかし、調子はいいけど、何を言はうとしているのか明らかではない。
 つまり散文としての機能を果たしていないのです。
 
 それに比べて現行憲法の文章は、「モタモタ」していて、歯切れが悪く、冴えないことおびただしい、「シマらないもの」であります。
 が、しかし、伝えるべき内容がともかく、「何とかわかる」ような文章にはなっている。
 その分だけ「マシである」、と私は思っているんです。

 ここで問題は複雑になってきます。
 現行憲法の文章が明治憲法に比べてまだしもいいというのは、これが英語から翻訳したもんだからなんです。
 非常に情けない話になってしまうのですが、元の文章が英語で出来ていて、それを訳したものだから、訳し方の下手さは別として、ともかく意味がちゃんと伝わるものにはなった。
 で、なぜ現行憲法のもとの英文がしっかりしていたか、という問題ですが、これは
1.法律論的に見る見方と、
2.文章論的に見る見方
がある。
 両方を論ずればいちばんいいんですが、それは私にはできませんから、文章論に限って話を進めます。

 答えは非常に簡単なことで、要するにこの原文が書かれたアメリカでは、散文というものが確立していたからだ、ということです。
 つまり論理的な内容に筋道を立てて明晰に考え、これを明晰に表現する、あわよくばそれを名文で表現する、あるいは巧妙に表現する。
 そううまくゆかない場合でも、とにかくちゃんと意味が伝達されるように表現する---そのような文章の書き方が、社会一般の風習として確立していた。
 それにつきるんです。
 これを逆に言えば、明治憲法が書かれた明治期において、いや現行憲法が翻訳された昭和20年代においてすらも、日本語の散文というものが確立されていなかった。
 今日ここで私の言いたいことの主眼は、実はこのことなんです。

 日本語の散文といえば、たとえば「方丈記」や「徒然草」の文章が頭に浮かぶ。
 あるいは漢文系の「日本書紀」とか「日本外史」の文章があげられます。
 しかし、和文脈系漢文脈系の双方とも、国民の大多数が、自分の意思を他人に対してはっきりと、そして'詳しく表明するための道具にはなっていなかった。
 そういうものではなくて、極めて特殊な個人の使う、極めて特殊なもの過ぎなかったのです。
 こういうことになった理由はいろいろあります。
 
 日本の言語表現は和歌を中心にしていました。
 そして和歌というのは古代の呪術的なものの名残を引いています。
 その和歌をつなぎあわせるというような形で、和文の表現は出来上がってきました。
 本居宣長の「玉かつま」でも、今日読んでみれば非常にダラダラして、こんがらがっていて、ひどくだらしない感じを受けるでしょう。
 意味が明白に、すばやく、頭に入ってこないように出来ている。
 というより、そうならざるを得なかったわけで、これが江戸時代までの日本の散文というものの到達点だったわけです。
 しかも、宣長なんてのはまだいいほうなんですよ。
 普通の紀行文なんかですと、話が大雑把で、紋切型の京葉の連続で、ひどいものです。
 つまり、ものごとを具体的に精細に語って、他人に情報を提供するという態度がちっともない。

 なかで例外だと思われるのは、新井白石の文章であります。
 白石の書くものは、論理的に明晰で、読む者の頭にすばやく入ってくる仕組みになっている。
 話の中身が精密で、いつ、どこで、誰が、とか、船が何隻でやって来て、交易に費った金がいくらいくらかと、きちんと書いてある。
 あれは奇蹟的なくらい西洋の散文の性格と一致するものですね。
 不思議なくらいです。
 空想を逞しうすると、彼がああいう調子の文章を書くことができたのは、白石がキリシタンの宣教師シドッテイを審問した経験のせいではないか。
 それはもちろん白石個人の才能と言うこともあるでしょうけど、しかし、一番大きいのは「西洋文化と衝突」したせいではないか。
 まったくの他人と一対一になって相手に自分のことを分からせたり、論じあったりするには、日本的な論理ではうまくいかない、ということをイタリア人宣教師との対話から学んだせいで、西洋の散文の精髄と一致するものを体得できたのではないだろうか。
 あるいはその審問の過程で、なにしろ白石は秀才中の秀才ですから、シドッテイの身につけていた、西洋的な散文の根本精神を俊敏にも学び取ったのではなかろうか。
 そう思わせるくらい、白石の散文の文体は江戸時代の中では傑出した、例外的なものだと思います。

 西洋において散文はどのように確立していったかといいますと、坊さんが説教とか、演説の文体、歴史記述などの文体においてであります。
 そういった実用的な文章が長い時代にわたってかかれ、その集積の結果、散文というものがひろい範囲の人々の共通の財産になり、それをあやつることによって、小説家は小説を書くことができるようになった。
 ですから、小説の文体の歴史の前に、いわば前史、プレヒストリーとして、ごく普通の散文の歴史があった。
 それが西洋なんです。

 ところが、近代日本の散文の歴史ではこれが逆になっています。
 開国とともに西洋の文明がおそろしい勢いで迫ってきた。
 それは西洋文明の表現である、西洋的な文体、つまり散文が迫ってきたことであった。
 これを受けいれるためには、日本語の散文の文体というものを創造しなければなりません。
 しかも、のんびり構えているわけにはゆかない。
 事態は急を要する。
 日本の散文を大至急、創造しなければなりません。
 この要求に大慌てで応えようとしたのが「口語文」という形式であり、その創造の役割を担ったのはほかならぬ小説家たちでした。
 口語文は日本の小説家が、なんとかして西洋的な散文んの文体を明治の日本に作り上げようとした苦闘の現れなんです。
 こうして、ともかくも一つの形をなした口語文を使って、歴史家も坊さんも文章を書いた。
 新聞記者も書いた。
 医学書も技術書も、これを用いて記述された。
 これが現代日本における散文の歴史のはじまりでした。

 そこで、どういうことが起こったか。
 わたしたちが用いている現代の口語文は、小説を書くには具合がいいが、それ以外の目的には、どうもうまく適合しない、という形に出来上がってしまったんです。
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 そのことを示すのは学者の文章ですね。
 国文学者にせよ、歴史学者にせよ、それぞれ深い学殖を持ち主であるはずなのに、いちおう文章が上手だと評価される人は、極めて例外的な少数に過ぎない。
 これは日本の散文というものがまだ確立していないことの証拠だと私は思います。

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 それゆえにこそ、日本人がごく普通の人でもわりに文章が書けるようになったのではないか。
 そして考えるならば、日本の散文というものは、もちろんまだ確立しているとは言えないけれど、確立しかけているのではないか。
 私はそう考えています。

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 とすれば、この大事な憲法を、明治憲法に比べて文体が劣るなんて難癖つけ、捨ててしまおうとするのは、まことに了解に苦しむ態度といわなければなりません。
 その難癖のつけ方が無茶苦茶で、むしろ逆に明治憲法のほうが文章としてははるかに劣るということは、はきほど申し上げたとうりです。







 【習文:目次】 



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