2010年7月17日土曜日
★ 多読術:あとがき & 「あとがき」を読む:松岡正剛
● 2009/05[2009/04]
『
あとがき
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1940年に刊行されたアドラーとドーレンの『本を読む本』に、「シントピカル・リーデイング」という読書法が紹介されている。
たいへん話題になった。
学習読書、点検読書、分析読書の純を経て、シントピカル・リーデイングをしてみるといいという指南だ。
2冊以上の本を関連させながら読むという方法」で、いわqば多読術に当たっている。
ただし、『本を読む本』の指南はきわめてロジカルで、質問を明確にせよ、主題的関連性を発見せよ、弁証法的に読め、などというふうになっている。
つまりサブジェクトを見極めるためのの説得型、あるいはデイベート型読書法なのである。
ぼくが本書でオススメした多読術は、そういうものではない。
うんと柔らかい。
もっと認知関係的で、かなりパフォーマテイブで、プロセス的で、きわめて編集的なのだ。
これは、もちろんぼくの体験に基づいているのだが、いいかえれば、
第一には読書というものを生活体験と連動させ、
第二には本は「意味の市場」のなかに位置づけ、
第三には読書行為を知的な重層作業、
というふうに捉えたからである。
ぼくは、自分が試みてきた経験にもとづいて、さまざまな読書プロセスの特色を
「書き手と読み手と売り手のあいだ」
に拡張したわけである。
読前・読中・読後を分断することなく、繋げたといってもいい。
おそらく、このような読書論はかってあまりなかったと思われる。
それを本書では、「食読」とか「感読」とか「共読」とかとも名づけておいた。
読書を神聖なものだとか、有意義なものだとか、特別なものだとか、思わないほうがいい。
読書はもともと多様なものだ。
だから、本は「薬」にもなるし、「毒」にもなるし、毒にも薬にもならないことも少なくない。
読書は常に「リスクを伴なう」と思ったほうがいい。
読書を愉快にさせるのは、読み手次第なのである。
書き手だって、いい本を書いているとは限らない。
だからといって、著者の責任と読者の責任が半々なのではない。
著者三割、
読者三割、
制作販売三割、
残りの偶然が一割、
とういう相場だろう。
それゆえ本を読むにあたっては、読者自身が自分の特異な作法に照らし合わせ、会得しやすい柔軟な方法を身につけることをススメたい。
それには、むしろ最初から「多読的に遊んで」みるほうが面白いはずなのだ。
「あとがき」から読む人がいますが
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もちろん、かまいません。
まるまるオーケーです。
それで本文を読む気になるのなら、それでいい。
なんたって読書は、「その本を読む気になるかどうか」ということでうから。
著者による「あとがき」はたいてい内容の要約というわけではなく、著者が書いたきっかけや、書いたあとの付言や弁解をしている場合がお鬼で、親しみが湧くでしょうが、読み手の読書エンジンが動き出す決め手に欠きます。
ぼくのばあいは、そういう読者が多いのを知っているので、ぼく自身は「あとがき」には読み手の意識を喚起するようなことを、できるだけ書くようにしています。
一方、翻訳書のばああいは訳者が「あとがき」を書く。
この場合は、原著の内容のサマリー(要約)をしていることが多いので、ぜひここから先に読むのがいいでしょうね。
それでも、その前にいったん「目次読書」をしておくと、もっと効果的です。
』
【習文:目次】
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