2010年7月9日金曜日
★ 全思考:死ぬことが、怖くてたまらなかった:北野武
● 2009/04[2007/03]
『
死ぬのが怖くて、どうにもならない時期があった。
高校から大学にかけて、毎日のように「死について」考え、死ぬことに怯えながらいきていた。
臆病者が微かな物音や何かの影に冷や汗を流しながら、夜の墓場を散歩するみたいなもんだ。
些細なことに気を病んで、自分は癌になったんじゃないかと思い込む。
このまま死んでしまったらどうしよう。
そういうことばかり考えていた。
死んだって話を聞いて、俺の心に浮かんだのは「ああ、アイツは死んだんだ」という、ただそれだけの感想。
人が死んでも、世の中には何の変化もない。
ただそいつが「イナイ」ってだけの、昨日と同じ今日が眼の前にあるだけ。
それだけのこと。
その呆気なさが、身に応えた。
人が死んだら「ただいなくなるダケ」だと知った。
天国も地獄もあったもんじゃない。
そして、生きている人間の記憶から、死んだ人間はいとも簡単に消えてしまう。
結局のところ、心に浮かぶのは「ああ死んだんだ」なんて、あまりにも簡単な思いだけ。
生きている人間は、死者とは無関係の世界を生きていく。
その殺伐とした事実に、ひどく衝撃を受けた。
ああ死んだんだ、それで終わりよって。
だから、死ぬのが怖くてたまらなかった。
だけど、どうすりゃ自分だけ死なずにいるなんてことができるだろう。
人の生き死には、ただの「運」だ。
運ということは、自分だっていつ死ぬかわかったもんじゃない。
今、自分が死んだら、きっと何も残ならない。
「北野武」という人間が生きていたなんてことは、地面に落ちた雨粒の一滴が、あとから降ってくる大雨の中であっさり消されてしまうみたいに、すぐに忘れ去られてしまう。
あっさりと忘れられてしまうくらい、自分の人生が空っぽということが、無性に恐ろしかった。
何もしないまま、ナイナイ尽くのままで死ぬのが、嫌でたまらなかった。
自分がちゃんと生きたという感覚が、どこからも沸いてこなかったのだ。
死んだら人間はどうなるとか、天国や地獄があるかとか、形而上学的な問題を思い悩んでいたわけではない。
自分が「生きているという快感」がないまま、生きたという記憶もないまま、この世から消えるのが怖かったのだ。
快感といっても、必ずしも楽しい思いとは限らない。
たとえ酷く苦しい体験だったとしても、自分がいきているということが味わえれば、それでよかった。
あの頃恐れていたのは、「死そのもの」というより、じぶんの思い通りに生きられない、窮屈で退屈な人生だったかもしれない。
もっとも何がしたいとか、どんな人間になりたいとか、あるいはこういう生活がしたいとか、そういう具体的なビジョンがあったわけでもない。
むしろ、そういうものが何にもないことが怖かった。
何をしたらいいかもわからないまま、川の流れに呑み込まれるように人生を生きて、死んでいいものなのだろうか。
母親のことは、今までにさんざん話してきた。
一言なんかじゃとても説明できないけれど、ともかくよく働く人で、そしてこれ以上はないというくらいの現実家だった。
芸術とか哲学とか文学とか、そういう類のモノの価値を、あの人は全く認めなかった。
そんなものは「人生の無駄遣い」いであった。
今になって考えれば、それはそれで一つの知恵だし、哲学といっていいくらいの「一つの思想」だった。
俺は物心ついた頃から、そういう家で育ったわけである。
父親は典型的な下町の職人だった。
とにかく子どもの頃から親父とまともに会話した思い出がひとつもない。
ほんとに小さな頃、一度だけ江ノ島の海に連れて行ってもらったことは覚えているけど。
ペンキ屋の職人で、仕事場と飲み屋と家を、ハンコで押したみたいに行き来して、稼いだ金はあらかた飲み代に消えていたんじゃないかと思う。
そんな調子だから、ウチの生活はお袋を中心に回っていた。
生活も家計も、子どもの進路も何もかも、お袋が決めていた。
昼は土木工事のヨイトマケ、夜はおそくまで内職。
そういう生活の中で、あの時代に、息子3人を大学に通わせ、娘も高校にいれた。
お袋の考えは俺の進路は、理系の大学を出て、どこか大きなメーカーに就職するという以外にはあり得なかった。
そしてその決定は、家族にとっては絶対だった。
だから俺も明治大学の理工学部に入った。
このときは、このまま普通に大学を卒業して、堅気のサラリーマンになるものだとばかり思っていた。
このために母親がどれだけ金を工面して、俺を大学に通わせているかをよく知っていた。
兄貴が自分の学問を犠牲にしてまで助けてくれているのも、わかっていた。
母親が考えた以外の選択肢なんて、自分自身にも考えられなかったのだ。
俺自身の脳みその働き方は、かなり理科系的だ。
今でも数学の問題を解くのは楽しみだし、オイラーの法則とか非ユークリッド幾何学なんて話を聞くと妙に心が騒ぐ。
もし数学者になっていたら、どんな人生だったろう、などと夢想してしまうのだ。
映画監督という、昔には思っていなかった仕事をするようになっても、やっぱり俺は理科系だなと思う瞬間がある。
シナリオを書いていて、因数分解みたいな作業を無意識のうちにやっている自分に気づくのだ。
4年生のときが1970年。
大学は60~70年安保で、学生運動の真っ盛りだった。
大学なロックアウトされていて、授業はほとんど休講。
卒論さえだせば卒業させてやる、と言われる時代だ。
世の中高度経済成長で、音楽とか演劇とか、文化的なものが世の中に溢れはじめていた。
俺も大学には行かずに、新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていた。
ジャズ喫茶での話題といえば、実存主義が花盛りで、サルトルとかボーヴォワール、それからコリン・ウイルソンなんていうのが人気だった。
理工学部機械科の学生には、とにかくチンプンカンプンは世界だけに、それだけ憧れが募った。
俺がすらすら喋れる話題といえば、ホンダのエンジンがどうしたこうしたというくらいなものであった。
理科系の大学を出て、大手メイカーに就職するのが人生の成功コースだという、戦後ずっと続いてきた母親じこみの価値観が、ジャズ喫茶で遊んでいると、とんでもない時代遅れに思えたりもした。
ある日、いつものようにジャズ喫茶のある歌舞伎町に向かうとき…。
ふと、とんでもないことを思いついた。
「そうだ、大学をやめよう」
どこからそういう考えが降ってきたかは、よく憶えていない。
母親がどれだけ苦労して、俺を大学に通わせているかを考えれば、4年生にもなった今ここで大学をやめると言い出すことが、どれほどの心痛を与えるかはよくわかっていた。
それは、それまで俺を育ててきた「母親を捨てる」ということだ。
自分のことを考えても、あの時期に、あれほど死を恐れていなければ、ああいう決断を下せたとは思えない。
もしかしたら、いつまでも巣立ちできずに、母親の敷いたレールの上を歩いていたかもしれない。
もっとも、あのまま母親の思い通りに人生を送っていたとしても、それで不幸になったかどうかはわからない。
ビートたけしという芸人が、このよに存在しなかったことだけは確実だけど。
どれはまた別の話だ。
』
【習文:目次】
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