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あまり著者や作家や学者をエライ人だなんて思う必要はなくて、いま、この人が自分にプレゼンテーションをしてくれているんだと思えばいいと思うんです。
著者というのは、自信あり気なことを書いているようにみえても、実はけっこう「ビクビク」しながら、「文章の演技」をしている人なんです。
そのための加工や推敲もいろいろやっている。
ですから本というのは、著者の「ナマの姿」ではありません。
「文章著者という姿」なのです。
もっとわかりやすいことをいえば、その文章著者は自分の書いたことをちゃんと喋れるかというと、半分くらいの著者は喋れないのです。
そういうものなんです。
「話せる」ということと「書ける」ということは、かなり違った能力に属しているのです。
ですから、プラトンが対話篇で試みたのは、ソクラテスらの話し言葉を書き言葉にどうしたら代えられるか、ということでもあったわけです。
吉本隆明さんと何度か話すとわかりますが、吉本さんは自分が書いたことを、そのようには喋れない。
「文章の男前」なんです。
こういうことって、けっこう多い。
著者とは「文章著者」ですから、そこに文体があって、なんらかの「書くモデル」というものが動いています。
それをズバッツと見るのが読解力のための読書のコツです。
著者の持っている「書くモデル」の特徴をつかめば、そのモデルによってだけでも、その著者の一冊がみえてくる、ということが起こります。
そうすると、その他の部分でも、他の本でも読めるようになってくる。
ざっとそのようなことを意識できてくると、次にその「書くモデル」を他の著書にもいろいろとあてはめることができる。
比較もできるようになる。
そうするとだんだんモデルがたまってくる。
これがその読み手の人の独自の「読むモデル」なのです。
一回の読書体験をそれが終わったからといって、決して消去しないということ、リセットしてしまわないことです。
読書体験は消してはいけないことなのです。
それが次の読解力につながっていくのです。
ここが本質的なこのなんですが、著者が「書く」という行為は、読者が「読む」という行為と極めて酷似しています。
ここにこそ読書術や多読術のヒントがあるんです。
著者というものは、意外にも書くことに苦労しています。
いろいろな複合的なエレメントが錯綜して、それをやっとこさ捌きながら書いているのが実情なのです。
一見して書いた文章は自信に満ちて、ときに理路整然と、ときに端然と書いているように見えますが、決してそんなことはありません。
そういう著者は百人に一人、千人に一人いるかもしれません。
実際に大半の著者は、複雑な文脈の可能性をやっとまとめているに過ぎない。
様々なものが入り乱れて、建築現場のように、街の雑踏のようになっているものなのです。
しかし、それをなんとかコントロールして書き上がったものは、まあまあ見映えのものになる。
それは、やっと「読むモデル」になったからなんです。
つまり著者や編集者は、
「書くモデル」をなんとか「読むモデル」に。
していくという作業をしているわけです。
それが、書物というものです。
もとをただせば、もともと「書くモデル」は「読むモデル」を目指すしか途はないのです。
むろん、そんなこと知ったことじゃないという前衛的な著者や極私的な本もありますが、それは例外んです。
さて、そうだとすると、これを「読書する」というほうから眺めますと、本を書く前でも、本を読む前でも、実は相互に似たような「読書世界」が前提になっていた、ということがわかってきます。
ぼくはときどき読書シンポジウムのようなところへ引っ張りだされたり、「ビジネスマンに役立つ読書特集」といった雑誌の企画に付き合わされます。
でも、これにはいつも困るだけです。
「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。
それって、「役に立つ人生って何か」と聞くようなものですよ。
そんなこと、ひとそれぞれです。
むしろ「読書は毒でもある」ということを認めていったほうが、かえって読書は面白くなります。
これはとても大事なことで、本はウイルスでもあるし、劇薬でもあるんです。
すべての読書において、対症療法のように本を読もうとするのはいささかおかしい。
そんなことは無理です。
読書はそもそも「リスクを伴なうもの」なんです。
それが読書です。
ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれる、と思いすぎないことです。
背信、裏切りもするのです。
負担を負わせてもきます。
だから、おもしろい。
危険やリスクを伴なう分、深くもなっていきます。
その他方では、読書するにあたっては、書物に対して敬意をもつことが必要です。
馬鹿にして物事を見たら、どんなものも「薬」にも「毒」にもならない。
最初からつまらないものにしか見えませんから。
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【習文:目次】
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