『
そもそも親子が仲睦まじいというのが、俺には耐えられない。
父ちゃんなんてもんは、煙ったくて、オッカネエくらいでちょうどいい。
マイホームパパなんて、いつもニコニコ笑っていて、子どもの気持ちがよくわかる、ものわかりのいい父親が理想だなんてことになった頃から、どうにも教育がおかしくなってきた。
子どもの気持ちなんて、そんなものは、大人なら誰にでもわかっている。
どんな大人だって、昔は子どもだったのだから。
でも、「駄目なものは駄目」なんだと父親が教えてやらなきゃいけない。
そういうことを教えてやれない、物分りのいい父親が多すぎる。
オヤジがガキに媚を売ってどうする。
結局は自分が可愛いだけのことじゃないか。
父親っていうのは、子どもが最初に出会う「人生の邪魔者」でいいのだ。
子どもに嫌われることを、父親は恐れちゃいけない。
中学時代に、近くにお金持ちの子どもが行く市立の進学校があった。
頭はいいし、女の子にもて、制服までが洒落ている。
野球の試合をすると、こっちは馬鹿で貧乏で、しかも格好がダサイ。
グランドで向いあった瞬間から、皆うなだれるしかない。
おまけに、肝心の試合までコールド負け。
その私立校は、野球がむちゃくちゃ強かったのだ。
何一つとしてかなわない。
徹底的に打ちのめされるだけだったのだ。
「人間はみな平等だなんていうウソ」を、あの頃から叩き込まれてきた。
そもそもウチの近所のなんて、子どもが「医者になりたい」なんて言えば、親は「無理だよ、オマエは馬鹿なんだから」。
「新しいグローブが欲しい」と言えば「駄目だよ、ウチは貧乏なんだから」。
それで終わり。
「馬鹿と貧乏」の2ツで、ほとんどの問題が解決していた。
「一所懸命努力すれば、きっとできる」なんてことは絶対言わない。
「オマエは馬鹿なんだからやめときなさい」
「学校なんて行かなくていいよ、どうせアタマがわるいんだから」
「欲しけりゃ、大人になって金持ちになったら買いな。ウチは貧乏だから買えないよ」
そういうことの繰り返しだから、子どもは自然と自分の分というものをわきまえるようになる。
諦めたり、我慢したりすることを、当たり前のこととして憶えていくわけである。
要するに、「本当に貧乏だった」のである。
けど、そうやって子どもに我慢を教えることが、一つの教育であることを、たいがいの親は知っていた。
なぜなら、子どもが大人になったとき、そこに待っているのは、「駄目なものは駄目」な世の中だから。
世間の風は冷たくて、我慢出来ない人間は、落伍するしかないということを、誰もがよく知っていた。
子どもは素晴らしい、子どもには無限の可能性がある。
今の大人は、「そういうふざけたことを言う」
子どもがみんな素晴らしいわけなどあるはずがないだろう。
残酷な言い方だが、
「馬鹿は馬鹿だ」。
足の遅いやつは遅いし、野球がどんなにすきだって、下手なヤツはどんなに練習しても下手なのだ。
そんなことは分かりきっているのに、世の大人は平気で、本気で努力すれば誰でも一流になれる、なんていうウソを臆面もなく言う。
そうじゃないだろう。
「才能のある人間」が、誰よりも努力して、「ようやく一流になれる」という話だろう。
才能のないヤツがどう頑張ったって、屁の役にも立たないのだ。
受験にしても、社会に出てからの競争にしても、少し先には完全な勝ち抜き戦が待っているというに、だ。
その中で戦っていかなきゃならんのに、誰でも無限の可能性があるなんていうことにしてしまったもんだから、逆に、落ちていく人間に対しては、その大半だが、愛情のかけらも持たなくなる。
「誰でも無限の可能性がある」という前提では、オマエの「努力が足りない」という結論になってしまう。
どんなに努力したって、できないヤツはできないのだ。
なんでも努力のせいにして、「人間には本来、差がある」という現実をウヤムヤにする。
おかげで、今の子どもは、その努力すらしないで、夢さえみていればいつかかなうと思うようになる。
となれば、少し年を経ると「自分探し」に向かわざるをえなくなってくる。
そういう子どもの状態で、いきなり社会にほっぽり出されるから、アタマがおかしくなる。
自分の思い道理にならないことを、何でもかんでも人のせいにする。
それで慌てて、ウチの子どもはどうしたらいいんでしょうなんて、テレビの電話相談なんかに泣きついてくる。
そんなヒマがあったら、自分の子どもに「オマエなんかにゃ無理だったんだよ」と言ってやれよ、と思う。
「オマエが間違っているんだよ」と。
努力すればなんとかなるなんて、おためごかしを言っていないで、子どものころからちゃんと叩き込んでおいてやった方がいい。
「人間は平等なんかじゃない」
「お前には、その才能がないんだ」
と、親が子どもに言ってやるべきなのだ。
いくら努力したって、駄目なものは駄目なんだと、教えてやらきゃいけない。
そんなことを言ったら、子どもが萎縮してしまうって。
自分の子どもが、何の武器をもっていないことを教えておくことは、ちっとも残酷なことじゃない。
せめて子どもが世の中に出たときに、現実に打ちのめされて傷ついても、生き抜いていけるだけのタフな心を育ててやるしかない。
子どもの心を傷つけることを恐れちゃいけない。
欲しいものを手に入れるには、努力しなきゃいけない。
だけど、どんなに努力しても駄目なら諦めるしかない。
それが現実なのだといことを、子どものうちに骨の髄まで叩き込んでおくことだ。
それが、父親の役目だろう。
』
【習文:目次】
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足の遅いやつは遅いし、野球がどんなにすきだって、下手なヤツはどんなに練習しても下手なのだ。
そんなことは分かりきっているのに、世の大人は平気で、本気で努力すれば誰でも一流になれる、なんていうウソを臆面もなく言う。
そうじゃないだろう。
「才能のある人間」が、誰よりも努力して、「ようやく一流になれる」という話だろう。
才能のないヤツがどう頑張ったって、屁の役にも立たないのだ。
受験にしても、社会に出てからの競争にしても、少し先には完全な勝ち抜き戦が待っているというに、だ。
その中で戦っていかなきゃならんのに、誰でも無限の可能性があるなんていうことにしてしまったもんだから、逆に、落ちていく人間に対しては、その大半だが、愛情のかけらも持たなくなる。
「誰でも無限の可能性がある」という前提では、オマエの「努力が足りない」という結論になってしまう。
どんなに努力したって、できないヤツはできないのだ。
なんでも努力のせいにして、「人間には本来、差がある」という現実をウヤムヤにする。
おかげで、今の子どもは、その努力すらしないで、夢さえみていればいつかかなうと思うようになる。
となれば、少し年を経ると「自分探し」に向かわざるをえなくなってくる。
そういう子どもの状態で、いきなり社会にほっぽり出されるから、アタマがおかしくなる。
自分の思い道理にならないことを、何でもかんでも人のせいにする。
それで慌てて、ウチの子どもはどうしたらいいんでしょうなんて、テレビの電話相談なんかに泣きついてくる。
そんなヒマがあったら、自分の子どもに「オマエなんかにゃ無理だったんだよ」と言ってやれよ、と思う。
「オマエが間違っているんだよ」と。
努力すればなんとかなるなんて、おためごかしを言っていないで、子どものころからちゃんと叩き込んでおいてやった方がいい。
「人間は平等なんかじゃない」
「お前には、その才能がないんだ」
と、親が子どもに言ってやるべきなのだ。
いくら努力したって、駄目なものは駄目なんだと、教えてやらきゃいけない。
そんなことを言ったら、子どもが萎縮してしまうって。
自分の子どもが、何の武器をもっていないことを教えておくことは、ちっとも残酷なことじゃない。
せめて子どもが世の中に出たときに、現実に打ちのめされて傷ついても、生き抜いていけるだけのタフな心を育ててやるしかない。
子どもの心を傷つけることを恐れちゃいけない。
欲しいものを手に入れるには、努力しなきゃいけない。
だけど、どんなに努力しても駄目なら諦めるしかない。
それが現実なのだといことを、子どものうちに骨の髄まで叩き込んでおくことだ。
それが、父親の役目だろう。
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【習文:目次】
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