2010年7月29日木曜日

★ アメリカ 歴史の旅:村垣淡路守の日記:猿谷要


● 1987/03[1977/**]




 やがて蒸気が盛んになり、今や走りだそうとする。
 かねて眼も回ると効いていたので、いかがあらんと、船とは変わっているうちに、すさまじい車の音がして走りだした。
 すぐと人家を離れ、しだいに遠くなるにつれて、車の轟音は雷のひびきのごとく、左右を見れば、三、四尺のあいだは草木も縞のように見えて見止らず、七、八間先を見れば、それほど眼の回ることもなく、走る馬の乗っているようだ。
 少しも話が聞こえず、殺風景のものである。

 これは、日本人が集団で蒸気機関車に乗った最初の記録といえる。
 1858年(安政5年)に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書を交換するため、アメリカから回された船であるポーハタン号に乗って、1860年(万延元年)2月に日本を離れた使節団の一行が、パナマで生まれて初めて蒸気機関車に乗ったときの記録である。
 乗ったのは、使節団77人のうち、サンフランシスコで病気になった一人を除く76人で、筆者は使節団の副使、村垣淡路守、当時48歳で、日付は4月27日(以下陽暦)となっている。

 先行した咸臨丸は、艦長に勝麟太郎、軍艦奉行の従者に福沢諭吉、通訳に中浜万次郎という面白い組み合わせだったが、こちらの方は太平洋岸に到着しただけで帰国しているので、集団でアメリカ文明の衝撃を受けたのは、村垣ら一行76人の方であった。

 ワシントン最大のウイラード・ホテルに泊まったので、生活ぶりも混乱をきわめる。
 村垣淡路守の日記によると、

 この家(ホテル)は方一町もあるべし。
 四つ辻の角で、5階造りの大家、美麗をきわめている。
 正使の新見豊前守とおれは合い部屋で、15畳ばかりの席である。
 霊の花毛氈を敷き、椅子がおいてあるが、これは片付けて、座布団を敷いて座った。


 また従者の一人、加藤素毛の『二夜話』には次のような部分がある。

 浴槽は長持ちのような箱で、白銅が張ってある。
 ねじが二つあって、一つをひねれば熱湯が出、他の一つからは水が出る。
 両方一時に開いて湯と水の加減をしてから浴槽に入って座ると、浅いのでヘソのあたりまでしか湯がない。
 後で聞くと、寝て前を洗い、うつぶせになって背中を洗うのだそうだ。
 天井に蓮の実のようなものがあり、ねじをひねると清水が滝のように落ちてくる。


 さて、5月17日、いよいよホワイトハウスを訪ね、批准書を交換することになった。
 アジアから来た珍しい一行を眺めようと、ホテルとホワイトハウスの間は人波で埋まり、よい場所はプレミアがついたほどだという。
 ホワイトハウスでは、狩衣や鳥帽子、鞘巻きの太刀などに威儀を正した日本の代表たちが、民主党の大統領ジェームス・ブキャナンに国書を奉呈する。
 こういう席上にも大勢の女性が列席しているので’、日本代表たちはびっくりした。

 その日の村垣の日記。

 かくて夕方帰る。
 集まって今日のありさまを語り合った。
 大統領は七十余の老翁、白髪温厚で威儀もある。
 しかし、商人と同じ姿で、黒ラシャの筒袖、股引は何の飾りもなく、太刀も持たない。
 ……合衆国は世界一、二の大国であるが、大統領は総督で、4年ごとに国中の入札で定めるよしであるから、国君ではないが、御国書も与えられたことであるので国王の礼を用いたが、上下の別もなく、礼儀も少しもないので、狩衣を着たのも無益であったと思う。

 ズボンを見て股引と思ったのだが、当時の日本の常識から考えると、この日記のようなことになったのであろう。

 さて一行は、大統領招待の晩餐会や舞踏会に出たり、各地の見学に出向いたりして手厚い歓迎を受けている。
 国会議事堂を見学したときの村垣日記には、次のような面白い部分がある。

 正面の高いところに副大統領、前の少し高い台に書記官二人、その前に椅子を丸く並べ、それぞれ机、書籍をたくさん置き、およそ四,五十人も並んで、そのうちの一人がたって大音声にののしり、手まねなどして、狂人のごとし。
 何か云い終わって、また一人立ち、前のごとし。
 何事なるやと聞くと、国事は衆議し、各意見を残らず建白するのを、副大統領が効いて決するよし。……
 2階に上がって、またこの桟敷で一見せよというので、椅子に腰掛けて見る。
 衆議の最中なり。
 国政の重要な評議であるが、礼の股引をつけ、筒袖を着た姿で、大音でののしるさま、副大統領の高い所にいる有り様などは、わが日本橋の魚河岸の様子によく似ている、とひそかに語り合った。


 村垣淡路守はこうして遠慮無く自分の尺度で相手を酷評したが、各地におけるアメリカ人の歓迎ぶりはなかなか熱狂的で、ニューヨークに一行が着いたときには、それが最高潮に達した。
 使節団の泊まったホテルの前では歓迎パレードが展開し、参加した軍人の数だけでも6,500人に及んだという。











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2010年7月24日土曜日

: あとがき


● 2006/09



 稿を終わるにあたって、突拍子もないことを言わせてもらうと、もうわかってもらえた人にはわかってもらえたと思うが、私は「愛国者の端くれ」だと思っている。

 これは、どちらかというと、本書が格差社会の是正というようなヨーロッパ社民主義的なことを主張しているために、左の人間と誤解されるのを恐れているからでははい。
 私は、どっちが国のために得になるのか(国益)というプラグマテイックな考えをすべきだと考えているため、左とか右とかいう発想自体が前時代的だと思っているからだ。
 むしろ私が誤解を恐れるのは、貧しい人、「負け組」の人が可哀想だから格差社会を是正すべきだというようなヒューマニストだと思われる誤解である。

 たとえば、子どもが勉強をさせられるのが可哀想だからといって、このような知識社会で、ゆとりの中で育てていれば、外国だけでなく、日本の「ハゲタカ」の餌食になってしまうのだ。
 日本人が惨めな思いをするのをみたくないという意味でのヒューマニズムはあるかもしれないが、私はもっと現実主義者であるし、子どもにビシビシ勉強させろと言い続け、大人にも勉強しろと言い続けてきたせいか、世間様も私をあまり「優しい人間」とは思ってくれていない。
 「そうじゃなくて優しい人間なのだ、というイメージチェンジのために本書を書いたのではない」、とあえて断っておきたい。

 要するに、国が強くなることを考えているから「新中流社会」を提言したのである。
  私が、愛国者の端くれでヒューマニストなどではない、と言うのは、多くの読者の反発を覚悟ののうえで言うと、新中流社会になって欲しいのは「日本だけ」の 話で、世界中の貧困を撲滅すべきだとか、アジアの他の国々もそうなって欲しいと思っているわけではない、ということである。
 逆にいうと、たとえ ば韓国でヨーロッパ型の社会民主正当による政権ができて、韓国が新中流社会化して、格差社会化が進んでしまった日本より中流の数が多くなり、福祉が豊かな ために一般中流層が安心してお金が使えるようになって、その消費者感覚が日本以上に「良いものであれば、高くても買う」というふうになってしまうのを恐れ ているからだ。
 かって日本の消費者のほうがアメリカの消費者より心理的に豊かになることで、日本製品がアメリカ製品にクオリテイで抜き去って、日本の製造業が栄、アメリカの製造業がガタガタになったのと同じ構図をみるからだ。

 幸いにして、韓国も中国も貧富の差が激しい。
 まだまだ中流層は薄いし、その豊かさもしれている。
 だから今のうちに日本を新中流社会にすべきだと言っているのだ。
 日本という国は貿易依存度がGDPの1割前後の低さで推移してきた国だ。
 外国に物を買ってもらえなくても、国内市場が分厚いので、経済は十分成り立っているのだ。
 これが中流が崩壊して、中流向けの製造業が、アジア諸国をマーケットにしないと成り立たなくなってしまうようなことがあると、いまとは問題にならない形で中国や」韓国の顔色をうかがわないといけなくなり、自由な外交や自由な発言ができなくなってくる。
 
 日本人というのは、変わり身が早い。
 これが取り柄だと私はみている。
 私の知る限り、自民党にも民主党にもヨーロッパ型を標榜すべきだという優秀な議員はいる。
 自民党のこの手の議員たちは郵政民営化に反対したため、ずいぶん追い出されたようだが。
 トヨタの強さの秘密が徐々に国民にも浸透しはじめているし、逆にライブドア事件や村上ファンド事件で、むき出しの競争社会、拝金社会にも、徐々に疑問符がつけられるようになっている。
 あるいは、不平等社会、格差社会へなんとなくの嫌悪感が広がり始め、逆に教育問題から機会均等へ、公教育の復権への声がたかまりはじめているのも確かだ。
 そして、新中流社会のほうが日本人にシックリくるという肌の感覚は、多くの人に共有されていると信じている。

 バブルがはじけても、長らく日本はアメリカ経済を凌駕し、日本がアメリカ経済に負けを認め、アメリカ型の改革がはじまった「マネー敗戦」からまだ10年そこらしか経っていない。
 まだまだ日本人には「日本型価値観」が体からは抜けていないだろう。
 逆に言えば、10年経ったから本当にそれでいいのかという総括もできる時期に来ている。
 実際、この10年のうち8年は自殺者が3万人を超えた。
 アメリカ型改革の前と比べると年に1万人以上増えている年が、これだけ続いているのである。
 小泉首相の政権の実績の評価がこれからさまざまな形でなされるであろうが、少なくとも精神科医の立場から言わせてもらうと、在任中の自殺者の数で新記録を作った人であることに間違いはない。
 
 まだまだ十分に間に合うし、韓国に先を越される前に、日本は新中流社会として再興することを心から念じている。

 2006年8月  和田秀樹







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: 学歴知識社会の到来

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● 2006/09



 刈谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』の中で、
 「学歴社会論とは、ある意味で皮肉な議論である。なぜなら、学歴社会に対する批判が高まれば高まるほど、人びとは学歴の価値を再認識し、より高い学歴を求めて行動するようになる」
と、書いている。
 学歴社会批判を耳にした人は人々は、一方で学歴社会は悪いと思うが、その一方で自分自身や自分の子どもにはより高い学歴を目指す、というのだ。
 私は学歴社会批判や学歴無用論は根拠がないし、心理学の立場からいうと「嫉妬」がその源泉になっている部分が大きいので、あまり好ましいとは思わない。
 「学歴社会論という伝説」がみんなが信じてくれたことは、教育の動機づけとしては非常に役に立ったという刈谷氏の指摘は、誠に的を射たものだと感心している。

 いま、教育の世界で起こっていることは、これとはまったく逆なことなのである。
 バブル崩壊以後、日本は能力主義になり、学歴社会はなくなったと言われている。
 東大をそつぎょうしても退職まで安心できず、いつリストラされるかもしれなくなった。
 会社はいつ潰れるかもしれない。
 企業は学歴社会への批判を受けて、新規採用時でも学歴不問になったし、大学別の採用枠も取り払われた。
 日本でもようやく学歴社会が終わり、実力中心の社会になったと、財界までも含めてマスコミはそう報道している。
 しかし、実態はそうではない。
 各社の採用実績をみれば、東大、兄弟、一橋大、早稲田大、慶應大などの一流大学ばかりを並べている企業は少なくない。
 学歴は問わないが学力試験を課すことで、結果滝に学歴の高い学生しか採用しないようにしているのだ。

 ベンチャー企業にしても事情は似たようなものだ。
 ソフトバンクの孫正義社長はカリフォルニア大学バークレー校。
 ライブドアの全社長堀江貴文氏も東大。
 楽天の三谷浩司社長は一橋大からハーバード大学に留学してMBA(経営学修士)を取得している。
 ベンチャー企業は高学歴でないと起こせないのである。
 起業がもてはやされているが、現実には学歴がない人の参入余地は非常に狭いのである。
 今後はむしろ、有力遺伝子ベンチャーを立ち上げた大阪大学の森下竜一教授のように、大学教員でありながらバイオベンチャーを立ち上げ、創業者利得で40億円を稼いだといった人が増えることになってくるだろう。

 ちょっと前までは、高卒と大卒ではそれほどに初任給の差はなかったが、いまでは高卒で正社員に採用してもらうことさえも難しくなっている。
 二流大学以下だと正社員の就職率が半分を切っているところもあるという。
 段階の世代が一気に退職する2007年で一時的に就職がよくなったとしても、それを過ぎれば、大学を出ていても正社員での就職すら危なくなってくる。
 まして高卒では、かなり難しいい、ということが起こりつつある。
 初任給の差が、などという悠長なことは言ってはいられなくなっているのである。
 もちろん学歴だけで年収格差が極端につくわけではない。
 高学歴とは、あくまで必要条件に過ぎない。
 その上で成功者にならなければならないというもの事実だ。



 2005年11月のなくなったアメリカの経営学者、ピーター・ドラツカーは、現在のアメリカの経済発展の理由の一つとして、「製造業から知識労働への移行が終わった」からだと分析した。
 彼は情報化社会や高度情報化(IT)社会という言葉が使われるはるか以前から、
「21世紀は知識社会になる」
と予測していた。
 「知識社会」とは、知的労働者が「社会の主役」になるもので、知識が富を生み、社会を活性化させる社会だ、どということである。
 そこでは、「サービス労働者」とは、言われたことをよくこなす人を指す。
 これに対して「知識労働者」とは、医者や弁護士のような専門職や知識を主なる生産手段として仕事をする人を指している。

 彼はまた、
 「知識社会では、サービス労働者と知識労働者の格差は広がる」
とも述べている。
 言われたことをこなすだけの単純な労働者は、低コストの外国人労働者や機械やソフトウエアに置き換わっていくからだ。
 日本人であれば400万円かかるところが、外国人労働者に置き換えられれば250万円ですむという状況であれば、それに代替可能な日本人の労働者賃金も下がっていかざるをえない。
 さらに、機械やコンピュータで置き換えられるのであれば、外国人労働者すらもいらなくなってくる。
 そういう労働者と同じ仕事ができて、10年間24時間使えるロボットが1千万円で買えるということになると、年収250万円でも200万円でも雇ってくれなくなる。
 つまり、知識社会とは、進めば進むほど、システムや機械への投資で代替できる仕事はそちらにまかされ、人間が不要になってくる社会である。
 結果的に言うと、教育レベルの低い人のできる仕事はなくなってしまう、ということである。

 知識社会になったとしても、教育レベルの低い層をたくさん抱えている社会は、その人たちに職を与えなければならない。
 極端な言い方をすればロボットで代替できることが自明であっても、低教育レベル層を雇わねばならない。
 そうしないと失業率が高くなりすぎて社会の安定が脅かされるからだ。
 つまり、一般大衆の教育レベルの低い社会は「コストが高く」なりすぎる。
 逆に知的レベルの高い人を多く抱える社会ほど、富を生むことになる。

 知識社会といっても人手が必要な仕事は残るから、そういう職場ではパソコンが使えなくていいだろう、と考える人もいるかもしれない。
 が、そういうわけにもゆかない。
 そういう仕事でも、パソコン画面をいじりながら請求書を書く事が求められて」いるのである。
 「教育レベルの低い層を抱えておくことができない社会」が知識社会と言っていいだろう。
 つまり、国全体の教育レベルが高ければ高いほど、ビジネス環境がいい国、になるということになる。
 デンマークが世界で一番ビジネス環境がいいと評価されているのは、高い教育を受けた人がたくさんいるからではない。
 教育レベルの低い層が極めて少ないということである。
 実際、デンマークやフィンランドではエリート教育はそれほど充実しているわけではない。
 しかし、大衆全体が賢い社会、あえて言えば
 「馬鹿が少ない」
ということが、基本的な国の力になっているのである。

 それに比べると、かっては日本も「バカの少ない国」であったが、現在では、4割もの勉強しない子を放ったらかしにしている、常識的に見て異常な国になってしまっている。





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: 日本人パーソナリテイーの変貌

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● 2006/09



 日本社会が格差社会になっているのは、日本人の主流になっているパーソナリテイが大きく変わり始めたためだと考えている。
 1970年代末頃、価値観が多様化し、若者が個性化しているといわれていた。
 1980年代になると『週刊少年ジャンプ』が600万部の売り上げとなり、ファミコンが1,200万台も売れるようになった。
 音楽でも書籍でも映画でも、若者文化はメガヒット的なものが増えてきた。
 これは、若者が個性化しているのではなく、むしろ同質化している結果ではないだろうか。
 それまでの日本人とは別のタイプの日本人になっているのではないだろうか。

 私は、彼らを「シゾフレ人間(しぞふれ人間)」と名付けた。
 「シゾフレ人間」とは「統合失調症型人間」を指す。
 シゾフレ人間における心の世界の主役はいつも「他者」であり「周囲」である。
 競争意識が希薄であり、そのため周囲から仲間はずれにされたくないという気持ちが非常に強くなっている。
 人と違うことより、皆と同じであることにこだわる。
 表面的には人当たりがよく、明るいが、本音のコミュニケーションは苦手である。
 確固たる自分を持たず、不特定多数に同調しやすく、価値観や行動規範も周囲や雰囲気に流され易い。
 それゆえに、ベストセラーやカリスマを生み出す原動力にもなっている、というのが私の仮説である。
 1965年以後に生まれた日本人は、このタイプがかなりの多数派になっているのではないかと思う。

 これに対して、1955年以前に生まれた人に多いのが、「メランコ人間」である。
 メランコ人間とは「うつ病型人間」を指す。
 その最大の特徴は、心の世界の主役は基本的に自分である、ということである。
 他人にどう思われようとも、とりあえずは自分を貫き通したいと思うタイプである。
 もしもそれで悪い結果が出たら、非を自らに認めて罪悪感に苦しむタイプである。
 特定の他者との関係を重んじ、本音でのコミュニケーションを好む。
 過去へのこだわりが強く、過去の自分と今の自分の言動が一致していないと気が済まない。
 自分がガンバッて、もしダメなら自分を責める。
 そのため、メランコ人間は意外なことに、お金だけでは、自分の価値観で動く傾向を持つ。
 学歴が高い方がいいと思うと学歴をとるし、正義や道徳感で動くこともある。
 お金に価値を置くメランコ人間はお金で動く。
 こういうタイプの人たちががんばることが美徳であるとされたことにより、戦後の高度経済成長を支えてきたのである。

 シゾフレ人間は、まず周りの人に合わせるから、周りにアキラメが蔓延すると、簡単にあきらめがちになる。
 自分だけそこから這い出すというようなことはしない。
 また、自分に固有な価値観がないため、お金のように目に見えて、しかも持っていると一番得なものに流される傾向が強い。
 メランコ人間から見ると、シゾレフ人間は「笛吹けど踊らず」ということが往々にして起こりやすい。
 ガンバレば出世させる、給料を増やすといっても、周りから浮くのを嫌う発想が障害になっている。
 それより適当にやって、「みんなと同じ」で十分満足であり、そのほうが遥かに気が楽なのである。
 そのため、「いくらハッパをかけても声が届かない」「何を考えているのかわからない」人間に見え、メランコ人間はシゾレフ人間との間の断絶に、立ち尽くすばかりとなる。



 メランコ人間の多くは、戦後、誰もが努力すれば豊かになれる時代になり、がんばって自分の運命を切り開く可能性の大きい社会の中で成長してきた。
 彼らは受験や出世競争を勝ち抜くことに全力を傾けてきた。
 しかし、日本が豊かさを獲得してしまうと、
 「みんなと同じであれば十分食っていける。目立たずにみんなと一緒がなによりも大切だ」
という価値観を持つようになる。
 大人になってからは競争を大絶賛するのに、子どもの頃は競争させない社会にしていることも、シゾレフ人間が増えてきた要因として挙げられると思う。
 とくに公立学校では、子どもの競争に否定的な教育をしている。
 競争をさせないから、いま自分のいるところから這い出すテクニックを学べない。
 這い出すテクニックを知らないから、引きこもりになるしかない。

 これからの熾烈になるであろう競争社会に向かうにあたって、公立学校にいる子どもたちこそ、競争の方法論や競争精神を教えなければならない。
 なのに競争の経験がなく、這い上がる方法論を知らないような人間を作ってしまっている。
 私には日本人のシゾレフ化は、こうした競争をさせない教育や、みんなと同じが「良い」と思わせているマスメデイアが産み出している部分が大きのではないかと思っている。
 さらには、リストラや成果主義を安易に受けいれて、会社の中で「親の世代」にあきらめを蔓延させ、「子ども世代」をさらにシゾレフ化させるというメカニズムも動きは初めているのではないかと思う。
 日本人の適当に周囲に合わせて、自分が人の上に立とうとガンバルことのないシゾレフ人間化が、格差社会と言われている底流にあるのではないだろうか。







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2010年7月19日月曜日

: 金銭動機づけの限界

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● 2006/09



 現在の日本では、働かなければ餓え死にしてしまうようなことはなくなった。
 貧しい国のストリートチルドレンの映像を見ると、本当に飢えに直面しているから、世の中や将来について諦めていて、働かざるをえないということがあるだろう。
 しかし、この豊かなこの国でも、将来をあきらめている人たちは、勉強しないし、働かないし、努力しない社会になってきている。
 「どうせ報われないのだ」と諦めている人が大勢になれば、国全体としてはかなり大きなダメージになることはさけられないだろう。
 フリーターやニートの問題にしても、「こんな人たちも出てきたんだ」と見るか、「人口のある割合に達すると、国にかなりのダメージを与える」とみるかによって、意味合いが違ってくる。
 「社会的ひきこもり」と言われている人は、多めに見積もると100万人程度と見られている。
 ニートは厚生労働省の2004年の発表で64万人、内閣府調査では2002年に85万人。
 フリーターは厚生労働省では2005年で201万人、内閣府では2001年で417万人と、かなり大きな数字になってきている。

 人々にやる気をおこさせるにはどうしたらいいだろうか?
 格差を明確に大きなものにすることがやる気を促す、という議論があるが本当にそうだろうか?
 心理学の「動機づけ理論」では、「やってもどうせ勉強はできない」という「学習性無力感」というものがある。
 教育心理学の理論では、目標設定に際しては、できそうな目標を提示することが重要だと言われている。
  たとえば、いつもテストで60点の子どもに勉強させようというとき、「90点とったらハワイ旅行に連れて行っていってあげる」という場合と、「65点取っ たらマンガの本を買ってあげる」という場合では、大半の子どもは目標達成可能な65点に向かってはがんばるが、90点にかけるのはひじょうに僅かだという ことがわかっている。

 「内発的動機」とは、人間が本来持っている興味や、やる気を刺激して行動を起こすことで、たとえば仕事が楽しくて働いている人は職場も楽しくて長続きするといったことだ。
 これに対して、成果に対する評価や報酬、あるいは称賛や罰則など外側からの刺激によって意欲を引き出すことを「外発的刺激」という。
  内発的動機論が注目されるようになった1960年代の後半から1980年代のアメリカで、子どもは本来、べんきょうができるようになりたがっている、好奇 心旺盛で学ぶことを楽しんでいる、だからやる気になっている子や好奇心のある子に下手に賞罰を与えるとかえって気を削いでしまい、勉強ギライになってしま うと考えられた。
 そこで、子どもには賞罰を与えない、試験の結果は公表しない、宿題も出さないという方針がとられた。
 ところがこの結果起こったのは深刻な学力低下だった。
 勉強に関してもともと意欲のない子どものほうが、意欲を持っていた子どもより、はるかに多かったのである。
 1割~2割の子どもの学力を、その教育方法によって伸ばしたとしても、8割~9割の子どもの学力が下がってしまったのでは、全体のレベルは落ちてしまうことになる。

 心理学者は「人の行動のメカニズムはわかっている」とおもいがちだが、心理学では一人ひとりにいろいろな動機がある。
 だから心理学では、原則的に個人の経験を一般化することに非常に慎重になる。
 もちろん、そういう勝手な思い込みをする心理学者も日本では多いことも事実だが。
 個人の体験は一般化せずに、階層分化社会によってより働く意欲が増す人が多いのか、努力するとちょっとした差はつくけど大きな差のつかいない社会方が多くの人のやる気を高めるのか、ということを検討する必要があるということだ。
 リストラにするといって脅かさないと仕事をしなくなるというのは終身雇用廃止論者のテーゼだが、しかし、リストラの不安があると仕事の能率が落ちる人もいることも事実である。
 終身雇用があるおかげで安心して働ける人と、リストラの恐怖がないと働かない人もいる。
  リストラがないといって安心してサボる人もいるだろうが、終身雇用をやめて成果主義を導入し、成果次第でリストラすると宣言した会社と、リストラはないか ら安心して会社を信用して働いて欲しいという会社と比べたとき、どちらが生産性が高いかということについて考える必要がある。
 そういう割合を考えるのが経済心理学といってよい。

 どちらがいかは文化の違いもかんがみなければならないが、日本では年功序列で、会社に長い間やってきたから、ちょっとずつ出世できるというやり方がとられてきたが、それによって皆が一生懸命に働いてきたという事実はある。
 それによって高度成長を成し遂げ、世界でもっとも高い生産性を誇っていた時期もあったのも確かである。

 少なくとも言えることは、努力をあきらめている人たちには、いわゆる上昇指向、「お金持ちになりたい」という意識はほとんどないので、金銭動機では働いてくれないということである。
 現状の「格差をつければいい」という動機づけによって、逆にアンダーマイニングを起こしている層がかなりの数でいるということは知っておくべきであろう。
 「所得や収入に格差をつければつけるほど、人間はがんばる」というような単純な動機づけは、賞罰だけで人間の動機づけをみようとする極めて古いタイプの心理学に基づいている。

 もしも、臨床の腕のいい医者にはお金で報いればいいということになってしまうと、医療コストは間違いなく上がる。
 私たちは超高齢化社会に向かってソーシャルコスト、特に医療費を抑えないといけないという課題を背負っている。
 お金をなるべく使わずに優秀な医者に働かせたいのであれば、「お金以外の動機づけシステム」を温存しておくのは大事なことなのである。







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★ 「新中流」の誕生:はじめに:和田秀樹


● 2006/09



 2006年の5月にフィンランドを訪れた。
 ある雑誌の取材で、表向きは経済協力開発機構(OECD)の学力調査で、フィンランドの義務教育卒業時での学力が、読解力・科学的リテラシーが調査参加国中1位、数学的リテラシーが2位というすばらしい成績を収めた教育の秘密を探るためだった。
 (日本は読解力は参加国の平均以下で、科学的リテラシー以外はアジア諸国の全てに負けていた)

 しかし、それ以上に興味があったのは、世界経済フォーラムで2003年から2005年の3年連続で国際競争ランキング首位が、この国だったことだ。
 フィンランドの国民負担率は北欧のほかの国々と同じくきわめて高く「約65%」と日本の2倍近い。
 (国民負担率とは租税負担率と社会保障負担率の合計である)
 この国は、スエーデンやデンマークほどでないが、行き届いた社会保障と教育にお金をかけていることで知られている。
 (これらの国々も国際競争力ランキングで上位5位以内に入っている。日本は2005年で12位である)
 この国の人は、パリやロンドンの街で見かけるようなブランド品のバッグを手にする人は目立たず、国際競争力トップという漢字の豊かさを感じさせない。
 しかし、貧し気な人をほとんど見かけない。
 裏町に入っても、ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも大都市につきもののスラムのようなアパート街のようなものをみかけない。

 これを見て、アメリカの留学体験がよみがえった。
 1991年から1994年のアメリカであり、留学先は、決して景気のいいとは言えない、中西部のカンザス州で、」共稼ぎで夫婦の年収が3万ドル台ということがザラにある地域だ。
 人々は「安い」ものに飛びつき、ウオールマートは大盛況。
 いたるところに中国をはじめとするアジア製品であふれかえり、「maide in USA」を探すのに苦労した。
 一方で、日本の家電品は、日本の最新式と比べて3~5年落の製品が、日本の半分くらいの値段で売られている。
 それでも日本製品の信頼は厚かった。
 庶民がホンダのアコードを手に入れたときの嬉しそうな顔は、まさにアメリカ人の幸せファミリーの象徴のような印象をうけた。
 
 そのときに直感した。
 アメリカは貧富の差を大きくすることで、国際競争力を失った、ということだ。
 金持ちはヨーロッパ製品を買い、貧しい人はアジア製品を買う。
 この結果、アメリカの製造業は総崩れになる。
 中流がいなくなってマーケットを失うのはアメリカ企業なのだ。
 中流層の分厚い日本の製造業は、時刻である程度の値段で品質の高い製品が作れる。
 アメリカの中流は、それに憧れる。
 まさにそれは、1960年代くらいまでの日本人がアメリカの中流の使う製品に憧れたように。
 日本はアメリカのような国になってはいけない、と思っていたが、どんどんと雲行きが怪しくなってきている。
 そんな中で、フィンランドの姿は衝撃的であった。
 「中流層の分厚い国は強い」と再認識させられたからだ。

 日本人の改革は、何のための改革であるかということや、どういう結果をもたらすのか、ということを長期戦略の中で冷静に分析することなく、変革のためなの「新奇なもの」に飛びついてしまうきらいがある。
 「本当にいいものかどうか」という顕彰をしないまま変更してしまう。
 ダメでなかったところまでも、ダメだと思って改革の対象にしてしまい、「いいところは残して」おかなければいけない、という考え方に乏しい。
 その結果として、ひじょうに「いびつな改革」を行ってしまったのではないか。

 たとえば、「ゆとり教育」にはこうした日本の改革の悪いところが顕著に現れていたと思う。
 「変えなければいけない」と勝手に決めつけて、旧来の良かった部分をまったく評価しないままに教育改革に邁進してしまった。
 そして、ほとんどのマスコミもその風潮に乗った。
 その結果、かっての日本の教育のマネをしたアジア諸国が、いまでは学力ランキングで世界のトップクラスにランクされるようになってきている
 現在の日本の子どもの学力では、こうしたアジア諸国に抜き去られ、北欧の国々の後塵を拝するのを傍観するほかなくなった。
 日本は国際的にも通用する良さが崩れる、ことのデメリットを全く自覚してこなかった。
 そのために、日本の本当の強さを短時間で急速に崩してしまい、みすみす捨て去ろとしている。

 改革というと、必ずと言っていいほどアメリカ型の社会に変えていくことを意味していた。
 しかし、世界は今、アメリカよりヨーロッパを評価しているのである。
 本当の意味で強い国々はヨーロッパ諸国でであり、中でも北欧の国々なのである。
 しばらく前まで国中がめざしていた中流社会時代の良さを見直し、
 「ポスト階層分化社会
へ向けて、私たちは何を失いつつあり、何を失ってはならないのかを見定める必要があるだろう。

  そのようなポスト階層分化社会への期待をこめて、国民の多くが新中流社会を模索して欲しいという願いをこめて、日本の現状分析とこれからのあり方につい て、経済のシロウトではあるが、教育問題と心理学に長年携わってきた経験と、アメリカの真の姿を見た経験から、本書をしたためてみた。
 (「アメリカ帰りの日本人」の多くは、東部と西海岸のアッパーミドルと一緒に暮らした経験しか持っていない。アメリカの悪い部分を知らないように思えてならない)





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★ マチュピチュ 天空の聖殿:はじめに:高野潤

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● 2009/07



 15世紀に入ってから急激に勢力をのばしたインカは、16世紀はじめに北は現コロンビア南部から南はチリ、アルゼンチン北部まで領土を拡大した。
 だが、1533年、北ペルーのカハマルカで、フランシスコ・ピサロらスペイン人征服者たちびよってアタワルパ皇帝が処刑される。
 そのとき、帝国は実質的に崩壊したものの、以後30年間、祖先の血を受け継いだ皇帝たちは、マチュピチュの奥地に位置するビルカバンバ地方の城や砦にたてこもってスペイン人に抵抗し続けた。

 本書は、インカの始祖伝説にはじまり、マチュピチュにつながる山岳地のインカ道を歩き、奇跡というべきマチュピチュの都市そのものへと話が進んでいく。
 マチュピチュがどのような性格を持つ城であっったのか、インカは何を求めて建設したのか、あるいは実際にどのような生活があって、いつごろ放棄されたのか、などについて、通い続けても解けない疑問を軸にしながら記したものである。

 遺跡をはじめ、ケチユア語の地名は多い。
 それらのすべてがインカ時代から残されたものとは限らないが、周辺の自然や環境を説明している場合が多いため、簡単ではあるがカッコ内に意味をつけ加えた。
 また、内容の必要性から欠かせなかった部分には、私と既著と重なる箇所も含まれるが、すべてにおいて新しい主題に基づいて構成した。
 それぞれの読者の方が本書を手にしながら、「失われた都市マチュピチュ」をはじめとした数々のインカの大仕事、また、インカの大地や天空の世界へと夢をふくらませていただけたらと思う。




















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2010年7月17日土曜日

: いい本に出会う確率は、ふつう2割5分くらい


● 2009/05[2009/04]



 もちろん、読書は「自分を映す鏡」です。
 その鏡にはいろいろな意味や作用があるんじゃないでしょうか。

 一つは、普通の意味の「自己反映」ですね。
 読書は「無知から未知へ」と向かうのですから、読前・読中・読後に別自己反映をもたらしているといえます。
 この鏡はどちらかというと分身的なものです。
 ここには「非自己の反映」という視点も必要です。
 免疫学は、自己形成には市松の「非自己」が関与することを証しています。
 ジェンナーの種痘もそれを応用したものですね。
 「ちょっとだけ、非自己を入れてみる」ことに」よって、それが「自己」という免疫システムを形成する。
 ですから、ときには「変な本」も読んだほうがいいわけです。

 二つ目の鏡は、精神医学者のジャック・ラカンの言うような意味での「鏡像的なもの」です。
 ラカンは、人間の意識というものは社会的で体験的なものの投影になっていて、その順序がぐちゃぐちゃに意識の中に入っているため、鏡像過程が取り出せないでいる状態と見たわけです。
 取り出しそうとすると、一義的なあるラインだけが取り出されて、うまく複合的には取り出されて、それが心の圧迫になったり、ストレスになったり、過剰な自信になったりしてしまう。
 あげくに、読書世界にもその鏡像性が反映されて、残映しているというふうになる。
 本には、そういった意味での自己鏡像的な性質があります。

 三つめは、アリスの「鏡の国」のように、私たちが「日常では出会えない世界を映しだしている鏡」に出会えるということでしょう。
 これはファンタジーとかSFだけがそうだというのではなく、読書体験そのものの根底にある鏡です。
 アザーワールドを映しだす鏡です。
 わかりやすい鏡です。

 だいたいこういった3つの鏡があると思いますが、けれども、「本は人生の鏡だ」という見方は、あまりにも当たり前で、それほど刺激的とは言えません。

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 そこにもちょっとした哲学があります。
 哲学というのは大げさならば、確信のようなものです。

 第一には、読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。
 「癒し」というのではなく、アラインjメント、すなわち「整流」という風に言っています。
 これはどんな本でもいいというわけではないけれど、ある程度のキーブックや「好み」が向く本なら、必ずそうなると思います。
 なぜなら、読書は著者の書いていることを解釈することだけが読書ではなく、すでに述べてきたように相互編集なのですから、そこでアラインメントがおこるんですね。

 第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり、「連想」であると思っている、ということです。
 科学も小説も、人文も芸術も、思考や表現の本質の大半はアナロジーであり、類推であり、連想であると確信しているんです。
 つまり、どんなことも堅く考えていないんです。
 コンビネーション、組み合わせの技法ですね。
 「類推の能力」です。
 アナロジーこそが、ぼくをイノベーテイブにしてくれる。
 
 第三に、ぼくの元気がでてくる源泉や領域は、みなさんには意外かもしれないけれど、必ず「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」だと確信しているということです。
 規定された’領域や明瞭な部分と付き合うのは、ふだんはそれでいいけれど、自分がピンチになったり調子が落ちていたり、迷ったりしているときは、むしろその根底になっていそうな「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」に着目したほうが、元気が出るということですね。
 ここには、ぼくの「負の想像力」という見方や「フランジャイルな観察力」という見方が深く関与しています。

 ぼくは世の中も、自然界も、また能や思考も、それらはすべからく「複雑系」だと見ています。
 部分をいくら足しても全体の特色にはならないし、全体がどのようにみえても、それから、部分を規定することもできない。
 数学的にいえば、非線形ということ、ノンリニアだということです。
 そのような複雑系では、どこかで水が氷になったり、もやもやした’雲がウロコ雲、イワシ雲になったりするような「相転移」がおこるフェーズがあります。
 そこは複雑系の科学やカオス理論では「カオスの縁」などとも呼ばれているんですが、そこでいったい何が起こっているかというと、新しいオーダー(秩序)が生まれています。
 言い換えると、新たな「意味の発生」ということです。
 何かの「芽」や「根」があると、そこに意味が生まれる。
 これを科学では「創発」とか「エマージャエント」というのですが、システムの分析からすると、「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」にこそ何かのオーダーが生じているということなんです。
 
 このことを、ちょっと感覚的なことに当てはめて言いますと、「せつない」とか、「残念」とか「失望感」とか「気持ちばかりがいっぱい」ということにあたります。
 つまり、ふつうは「負」の部分とか、「際」の状態だと思われているところに、意味が創発してくるのです。
 ぼくは、そこがセンシテイブであるからこそ、それをバネにしていいと判断しているのです。
 それが「負の想像力」や「フランジャイルな観察力」というもので、ぼくの読み書き世界の最もきわどいところで、たえず革新的な力を発揮しているところです。

 言っておくべきは、「いい本」にめぐりあう確率は最高でも3割5分くらいがいいところでしょう。
 普通は2割5分くらい。
 その」確率をあげるためには「駄本」を捨てるようにすべきかというと、そうではなく、むしろ三振したり、見送ったものがあるという思いが重要になる。
 どんどん空振りして、相手を褒めるつもりになったほうがいいんです。
 それから、洋の東西を問わず、古典のほうが断然「きわどいもの」が多いということも指摘しておいたほうがいいでしょう。
 江戸時代なんて発禁ものばかりでした。
 だから版元はしょっちゅう手鎖りをうけていた。
 まさに古典はリベラルアーツだということですね。







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: 「書くモデル」と「読むモデル」


● 2009/05[2009/04]



 あまり著者や作家や学者をエライ人だなんて思う必要はなくて、いま、この人が自分にプレゼンテーションをしてくれているんだと思えばいいと思うんです。
 著者というのは、自信あり気なことを書いているようにみえても、実はけっこう「ビクビク」しながら、「文章の演技」をしている人なんです。
 そのための加工や推敲もいろいろやっている。
 ですから本というのは、著者の「ナマの姿」ではありません。
 「文章著者という姿」なのです。
 もっとわかりやすいことをいえば、その文章著者は自分の書いたことをちゃんと喋れるかというと、半分くらいの著者は喋れないのです。
 そういうものなんです。

 「話せる」ということと「書ける」ということは、かなり違った能力に属しているのです。
 ですから、プラトンが対話篇で試みたのは、ソクラテスらの話し言葉を書き言葉にどうしたら代えられるか、ということでもあったわけです。
 吉本隆明さんと何度か話すとわかりますが、吉本さんは自分が書いたことを、そのようには喋れない。
 「文章の男前」なんです。
 こういうことって、けっこう多い。
 著者とは「文章著者」ですから、そこに文体があって、なんらかの「書くモデル」というものが動いています。
 それをズバッツと見るのが読解力のための読書のコツです。
 著者の持っている「書くモデル」の特徴をつかめば、そのモデルによってだけでも、その著者の一冊がみえてくる、ということが起こります。
 そうすると、その他の部分でも、他の本でも読めるようになってくる。

 ざっとそのようなことを意識できてくると、次にその「書くモデル」を他の著書にもいろいろとあてはめることができる。
 比較もできるようになる。
 そうするとだんだんモデルがたまってくる。
 これがその読み手の人の独自の「読むモデル」なのです。
 一回の読書体験をそれが終わったからといって、決して消去しないということ、リセットしてしまわないことです。
 読書体験は消してはいけないことなのです。
 それが次の読解力につながっていくのです。
 ここが本質的なこのなんですが、著者が「書く」という行為は、読者が「読む」という行為と極めて酷似しています。
 ここにこそ読書術や多読術のヒントがあるんです。

 著者というものは、意外にも書くことに苦労しています。
 いろいろな複合的なエレメントが錯綜して、それをやっとこさ捌きながら書いているのが実情なのです。
 一見して書いた文章は自信に満ちて、ときに理路整然と、ときに端然と書いているように見えますが、決してそんなことはありません。
 そういう著者は百人に一人、千人に一人いるかもしれません。
 実際に大半の著者は、複雑な文脈の可能性をやっとまとめているに過ぎない。
 様々なものが入り乱れて、建築現場のように、街の雑踏のようになっているものなのです。
 しかし、それをなんとかコントロールして書き上がったものは、まあまあ見映えのものになる。
 それは、やっと「読むモデル」になったからなんです。
 つまり著者や編集者は、
 「書くモデル」をなんとか「読むモデル」に。
していくという作業をしているわけです。
 それが、書物というものです。

 もとをただせば、もともと「書くモデル」は「読むモデル」を目指すしか途はないのです。
 むろん、そんなこと知ったことじゃないという前衛的な著者や極私的な本もありますが、それは例外んです。
 さて、そうだとすると、これを「読書する」というほうから眺めますと、本を書く前でも、本を読む前でも、実は相互に似たような「読書世界」が前提になっていた、ということがわかってきます。

 ぼくはときどき読書シンポジウムのようなところへ引っ張りだされたり、「ビジネスマンに役立つ読書特集」といった雑誌の企画に付き合わされます。
 でも、これにはいつも困るだけです。
 「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。
 それって、「役に立つ人生って何か」と聞くようなものですよ。
 そんなこと、ひとそれぞれです。

 むしろ「読書は毒でもある」ということを認めていったほうが、かえって読書は面白くなります。
 これはとても大事なことで、本はウイルスでもあるし、劇薬でもあるんです。
 すべての読書において、対症療法のように本を読もうとするのはいささかおかしい。
 そんなことは無理です。
 読書はそもそも「リスクを伴なうもの」なんです。
 それが読書です。
 ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれる、と思いすぎないことです。
 背信、裏切りもするのです。
 負担を負わせてもきます。
 だから、おもしろい。
 危険やリスクを伴なう分、深くもなっていきます。
 その他方では、読書するにあたっては、書物に対して敬意をもつことが必要です。
 馬鹿にして物事を見たら、どんなものも「薬」にも「毒」にもならない。
 最初からつまらないものにしか見えませんから。









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: 「本はノートである」=マーキング読書法


● 2009/05[2009/04]



 読書は「鳥瞰力と微視力」が交互に試されるんですが、ちょっと話してみると、その両方の歯車が軋んだまま動かなくなっていることが、すぐわかります。
 定形的な反応しかない。
 著者と読者のあいだに交差する「鳥瞰力と微視力」が描くものこそおもしろいのに、それをしない。
 それならその著者やその人物に関心などもたなくていいですよ。
 もし持つのなら、もっと徹底したほうがいい。

 読書の醍醐味とは、一言で言えば、未知のパンドラの箱が開くというこでしょう。
 本はやっぱりパンドラの箱です。
 その箱が開く。
 そこに伏せられていたものが、自分の前に躍り出てくる。
 ポール・ヴァレリー風に言えば、それによって「雷鳴の一撃を食らう」という楽しみです。
 ということは、こちらが無知だからこそ読書はおもしろいわけで、これに尽きます。
 「無知から未知へ」、それが読書の醍醐味です。
 無知があるから未知に向かえるんです。
 読書は、常に「未知の箱を開ける」という楽しみです。
 読書は「わからいから読む」。
 それに尽きます。
 本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタいい。
 ほとんどわからないからこそ、その本を読みたいののです。
 読んできたのです。

 旅と同じですよ。
 「無知から未知へ」の旅。
 効用もそこにあるんじゃないでしょうか。
 読書をもたらす書き手の方も、実は「わからないから書いている」。
 多くの著者たちも、作者たちもそうですよ。
 自分では「わからないこと」だから、その本を、その作品を書いている。
 いいかえれば、読書は「伏せられたものが開いていく」という作業だということです。
 そういうように読書が出来れば、読書傲慢にもならないし、読書退屈もしない。
 「伏せられたもの」が書物で、「開けていくもの」が読者です。
 鍵穴が書物で、鍵を入れるのは読者です。
 その関係の仲人を編集者や書店が用意する。
 だから、読書というものは、まさにパンドラの箱を開けるべく、その鍵と鍵穴の関係のプロセスに入ることが重要です。

 ぼくの読書術や多読術の方法の案内になりますが、まずは2つのことをススメておきたいと思います。
①.ひとつには、自分の気になることがテキストの「どの部分」に入っているのか、それを予想しながら読むということです。
 この、「予想しながら」というところがとても大事です。
②.もうひとつは、読書によって読み手は「新たな時空に入った」んだという実感をもつことです。
 そのことを読みながらリアルタイムに感じることです。
 この、「リアルタイムに感じる」ということが大事です。
 読んでいる最中に何かを感じたら、「マークして」おきたい。

 ぼくはこの2つのことを予めはっきりさせるための方法として、読みながらマーキングすることを勧めています。
 鉛筆でもいいから、読みながら印をつけていく。
 これは相当に、「お勧め」です。
 ぼくが本人に聞いたところでは、養老孟司さんは「2B」の鉛筆でマーキングするんですが、2Bの鉛筆が電車や旅行先にないときは、その本に集中できなくなると言っていた。
 2B鉛筆が手元にないと読む気がしないんです。
 2Bが養老読書術のカーソルなんです。
 これぞ、本道です。
 
 最初は好きなマーキングでいいでしょう。
 気になる単語や概念を線で囲むとか。
 いろいろな印をつけてみるとか。
 それをさっさとやる練習をします。
 まず、読みながら、単語や用語や気になる文章にマーキングをするという習慣を身につける必要があります。
 だから、好きなスタイルでやったほうがいい。
 なぜマーキングするといいか。
 すこぶる有効なことがあります。
 一つには「読み」に徹することができるということ、集中しやすんですね。
 もう一つは、再読するときにやたらとスピードが上がるということです。
 おかげで、何年かたったその本を読むとき、マーキングを追うだけで、その中身が初読時以上に立体的に立ち上がってくるという風になります。

 ただし、この「マーキング読書法」は、本をきれいにしおておきたいという人には向いていません。
 また、古本屋に売りたいと言う人にも、ご法度です。
 ぜんぜん値段がつきません

 ノートをとるのが好きな人とか、パワーポイントが好きな人には、ゼッタイに向いている。
 これは、「本をノートとみなす」ということです。
 読みながら編集し、リデザインする、ということです。
 それが「マーキング読書法」の愉快なところなんです。
 つまり本をノートとみなすこととは、
 「本とはすでにテキストが入っているノートである
と、思うことなんです。







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★ 多読術:あとがき & 「あとがき」を読む:松岡正剛


● 2009/05[2009/04]



 あとがき
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 1940年に刊行されたアドラーとドーレンの『本を読む本』に、「シントピカル・リーデイング」という読書法が紹介されている。
 たいへん話題になった。
 学習読書、点検読書、分析読書の純を経て、シントピカル・リーデイングをしてみるといいという指南だ。
 2冊以上の本を関連させながら読むという方法」で、いわqば多読術に当たっている。
 ただし、『本を読む本』の指南はきわめてロジカルで、質問を明確にせよ、主題的関連性を発見せよ、弁証法的に読め、などというふうになっている。
 つまりサブジェクトを見極めるためのの説得型、あるいはデイベート型読書法なのである。

 ぼくが本書でオススメした多読術は、そういうものではない。
 うんと柔らかい。
 もっと認知関係的で、かなりパフォーマテイブで、プロセス的で、きわめて編集的なのだ。
 これは、もちろんぼくの体験に基づいているのだが、いいかえれば、
 第一には読書というものを生活体験と連動させ、
 第二には本は「意味の市場」のなかに位置づけ、
 第三には読書行為を知的な重層作業、
というふうに捉えたからである。

 ぼくは、自分が試みてきた経験にもとづいて、さまざまな読書プロセスの特色を
 「書き手と読み手と売り手のあいだ」
に拡張したわけである。
 読前・読中・読後を分断することなく、繋げたといってもいい。
 おそらく、このような読書論はかってあまりなかったと思われる。
 それを本書では、「食読」とか「感読」とか「共読」とかとも名づけておいた。

 読書を神聖なものだとか、有意義なものだとか、特別なものだとか、思わないほうがいい。
 読書はもともと多様なものだ。
 だから、本は「薬」にもなるし、「毒」にもなるし、毒にも薬にもならないことも少なくない。
 読書は常に「リスクを伴なう」と思ったほうがいい。
 読書を愉快にさせるのは、読み手次第なのである。
 書き手だって、いい本を書いているとは限らない。
 だからといって、著者の責任と読者の責任が半々なのではない。
 著者三割、
 読者三割、
 制作販売三割、
 残りの偶然が一割、
とういう相場だろう。
 それゆえ本を読むにあたっては、読者自身が自分の特異な作法に照らし合わせ、会得しやすい柔軟な方法を身につけることをススメたい。
 それには、むしろ最初から「多読的に遊んで」みるほうが面白いはずなのだ。

 
「あとがき」から読む人がいますが
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 もちろん、かまいません。
 まるまるオーケーです。
 それで本文を読む気になるのなら、それでいい。
 なんたって読書は、「その本を読む気になるかどうか」ということでうから。
 著者による「あとがき」はたいてい内容の要約というわけではなく、著者が書いたきっかけや、書いたあとの付言や弁解をしている場合がお鬼で、親しみが湧くでしょうが、読み手の読書エンジンが動き出す決め手に欠きます。
 ぼくのばあいは、そういう読者が多いのを知っているので、ぼく自身は「あとがき」には読み手の意識を喚起するようなことを、できるだけ書くようにしています。
 一方、翻訳書のばああいは訳者が「あとがき」を書く。
 この場合は、原著の内容のサマリー(要約)をしていることが多いので、ぜひここから先に読むのがいいでしょうね。
 それでも、その前にいったん「目次読書」をしておくと、もっと効果的です。





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2010年7月13日火曜日

: ユダヤ教とキリスト教


● 2006/01



 日本に鉄砲を伝えたのはユダヤ人だった、といったらきっと読者は驚くことだろう。
 日本の記録によれば、種子島に、「南蛮人」によってあたらしい武器が伝えられたのは1543年8月25日のことだった。
 この事件は日本史の中で、「鉄砲伝来」として、大きなエポックとなっている。
 その翌年に、フェルナン・メンデス・ピントというユダヤ人が、本人の手記によれば、種子島を訪れていることになっている。
 ピントは克明の手記を遺している。
 そのなかで、自分と2人のポルトガル人の仲間が、日本をはじめて訪れたポルトガル腎であって、種子島に鉄砲を伝えた、と書いている。
 ポルトガルの記録によれば、ポルトガル人は種子島をを初めて訪れたのは、1542年となっている。

 ピントの手記は、死後31年たった1614年に出版されたが、まずスペイン語で刊行され、何か国語にも翻訳されて、大ベストセラーになった。
 ピントは日本を4回にわたって、訪れている。
 ピントは『東方遍歴記』を著したが、それまでヨーロッパで遠いアジアについて書かれた本といえば、14世紀に刊行されたマルコ・ポーロの『東方見聞録』だけだった。
 ピントの本はそれ以来のものだった。
 そこでピントの本は、読者の好奇心を大きく刺激し、競って読まれた。

 日本でも訳出されているが、訳者は「あとがき」のなかで、「ピントはユダヤ人ではなかった」と断じている。
 これは誤っている。
(注:『東洋遍歴記』平凡社東洋文庫 全3巻、岡村多希子訳、昭和54年・55年)

 私はアメリカにおいてポルトガル史研究の水準の高いことで知られている、カルフォルニア大学(UCLA)ポルトガル学部に確認したが、
 「今日、学会ではフェルナン・メンデス・ピントがマラノで、ユダヤ人だったということは、通説になっている」
と、言われた。
 ピントはユダヤ人なのである。

 では「マラノ」とは何か。
 日本民族は約270年にわたった徳川時代を通じて、進んで鎖国することによって世界から孤立した。
 それに対してユダヤ民族は、故国を追われたために、世界中へちらばり、キリスト教徒の迫害にさらされた。
 ヨーロッパでは「ゲットー」と呼ばれた、ユダヤ人専用居住区の押し込められて生きてきた。
 ローマ法王が主催した第3回ラテラン会議が、1179年に、キリスト教徒とユダヤ教徒が同じ場所に居住するを禁じる法を交付した。
 「ゲットー」の環境は劣悪であり、まわりには高い壁がめぐらされ、その中にユダヤ人を閉じ込めた。
 ユダヤ人は日中のみ外出が許され、日没後にはゲットーに戻らなければならなかった。
 不浄視されていたため、キリスト今日の祭日には外に出ることは出来なかった。
 ゲットーの壁には出入のための頑丈な扉が設けられ、日没から朝までは外から施錠され、キリスト教の番人が立っていた。
 夜間、あるいは祭日にゲットーの外にいたユダヤ人は捕らえられ、容赦なく処罰された。
 ユダヤ人はつねに衣服に、ユダヤ人の記章をつけていなければならなかった。
 これは古くからのもので、ナチスが考案したことではないのである。
 
 ピントの時代のヨーロッパではユダヤ人虐殺や迫害が広く行われていた。
 このため、多くのユダヤ人が海外に逃れ、インド、インドネシア、フィリッピン、中国などへ東漸して、日本までやってきた。
 ヨーロッパでは、キリスト教徒によるユダヤ教徒への憎しみが強かった。
 キリスト教はユダヤ教から新しい宗教として派生したから、独立した宗教にならなければという思いが強い。
 そのために、ユダヤ教徒だけでなく、ユダヤ教といったいとなっているユダヤ民族を排撃しなければならなかった。
 そうしなければ、キリスト教は、親にあたるユダヤ教に、吸収されてしまうという危機感があった。
 ユダヤ人に」とって、十字架は「恐怖のシンボル」だった。
 キリスト教による異端裁判は、1751年になってようやく廃止された。
 それ以前のユダヤ人たちは、生きながらえるために、表面的にキリスト教へ改宗することを装った。
 このように、キリスト教へ改宗を偽装したユダヤ人たちが、「マラノ」と呼ばれる人たちである。

 世界の中で、近代に入ってから、キリスト教白人と並ぶ力をもつようになったのは、2つの民族だけである。
 ユダヤ人と日本人だ。
 ユダヤ人の存在は、キリスト教徒にとっては目の上の瘤だった。
 キリスト教徒はイエス・キリストを信じる者だけが救済され、永遠の命をえることができるというものである。
 よって、イエスを拒む者は、悪魔に魂を売ったものであり、地獄に堕ちるという形にならざるを得なかった。
 キリスト教徒は、全人類をキリスト教徒に改宗させなければならないという使命をもっていたが、すぐとなりに住んでいたユダヤ人は、そうなることを拒んだのである。
 ユダヤ人は「主殺しの民族」とされた。
 そこで、「いじめ」「さげすみ」「こらしめ」なければならなかった。
 それが、「主のみこころ」だとされた。
 ユダヤ人が閉じ込められてきた、おぞましいゲットーから完全に開放されて、その壁の外で自由に暮らせることができるようになったのは、19世紀に入ってからのことである。
 自由啓蒙思想が大きな潮流となって、ヨーロッパを洗うようになったためである。
 日本が開国することを強いられて、国際社会に参入するようになったのも、ほぼ同じ時期である。
 19世紀半ばのことである。







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: 旭日大綬章 ジェー・エッチ・シッフ(ヤコブ・ヘンリー・シフ)


● 2006/01



 日露両国の悪化にともない、開戦が避けられない状況となったと判断された。
 そこで日本は戦費を、急いで調達しなければならなかった。
 日露戦争がはじまると、その直後に当時の日本銀行副総裁だった高橋是清は、海外に日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに渡った。
 だが、誰も日本の公債を引き受けようとしなかった。
 高橋の訪米は徒労に終わった。
 これはもっともな話だった。
 当時のアメリカ人たちは、小国である日本と超大国であるロシアが戦って、日本が勝つことなど万に一つもありえないと、判断していた。
 
 高橋は、次の目的地であったイギリスに向かった。
 日本に投資するということになると、誰もが尻込みしたが、それでもようやくイギリスの銀行団に、「500万ポンド」の日本国債を引き受けてもうらう約束をとりつけた。
 だが到底それでは足りなかった。
 高橋は日本の第一回の戦時国債として「1,000万ポンド」を調達する任務を帯びていた。
 これは日本の死活を左右するものであった。
 日本の運命が高橋の双肩にかかっていたのだ。
 高橋は途方に暮れて、あせっていた。

 高橋はイギリスの銀行家の友人が自宅で催してくれた晩餐会に招かれて出席した。
 その席の隣に座ったアメリカ人から、
 「日本の士気はどのくらい高いのか」
といったことをはじめとして、多くの質問を受けた。
 高橋は一つ一つ、できうる限り丁寧に答えた’。

 翌朝、イギリスの銀行家が突然、テルにやってきて、前夜の宴会で隣に座ったアメリカの銀行家が
 「日本の国債を引き受けよう」
と言っているといった。
 高橋は驚いた。
 前夜の隣席の人物が、「ヤコブ・ヘンリー・シフ」だった。
 こうしてシフは、500万ポンドを引き受けた。
 その後、日露戦争が終わるまでに日本はさらに3回にわたって、「7,200万ポンド」にのぼる公債を募集した。
 シフはドイツなどのユダヤ銀行に呼びかけて、これを承諾させた。
 戦争を通じて合計するとユダヤ人が全公債の「57%」を引き受けたのである。
 言い換えれば、日本海海戦の東郷艦隊と、大陸で戦った日本軍の平気や弾丸の半分以上が"ユダヤ製"なのであった。
 
 シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待された。
 明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。
 シフの訪日日記は、遺族が私家版の本として印刷、製本して、長いあいだ外に出ることなく秘蔵してきた
 この小冊子は「われわれの日本旅行記」と題されている。
 この日記によれば、シフ」は3月28日に、明治天皇の招きによって、皇居を訪れた。
 日記には、やや昂奮気味に、「今日、ミカドに会う」と、書かれている。
 明治天皇はシフに親しく接見され、このユダヤ人銀行家と昼食をともにされた。
 今日でも、シフ家にこの時の招待状が所蔵されている。
 シフは陪食を賜る前に、天皇に単独拝謁し、「旭日大綬章」を親しく授けられた。
 招待状に「勲二等」と記されているのは、シフがすでに勲二等瑞宝章の叙勲を受けていたためである。







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★ ユダヤ製国家日本:杉原千畝にまつわる経緯


● 2006/01



 今日、日本では杉原千畝(ちうね)が東京の外務省の方針に版して、ユダヤ人難民を救うために、ビザを個人的な裁量をもって発行し(1940年)、そのために戦後、外務省を追われたと広く信じられている。
 しかし、これは誤っている。
 杉原はカウナスでユダヤ人難民のビザを発給するに当たって、疑念がある場合には、しばしな事前に本性に許可を求めている。
 外務省にはこれらの「公電記録」が残っている。
 ビザの発給は個人的裁量において行ったものではなく、本国政府の方針に大筋において沿ったものであった。
 杉原が本省の訓令に違反して、ビザを発給したために処分された事実も、どこを捜してみても、まったくない。

 外務省の記録によれば、杉原がリトアニアにおいて難民に対してビザを発給したなかで、外人入国取締規則が規定していた、行き先国の入国許可と旅費と日本滞在費を所持していること、という条件を満たしていなかった者があったために、本省から注意を受けたことがあった。
 しかし、本省が出先に対して注意することは珍しいことではなく、杉原は一度として譴責処分を受けていない。
 ヨーロッパにあった日本大使館や、領事館も、多くのユダヤ人にビザを発給していた。
 杉原だけが、ビザを発行していたわけではない。

 杉原は外務省に下級の通訳官として入省した。
 通訳官は「属官」と呼ばれる、いわゆる下積みの"ノンキャリア"だった。
 杉原はカウナスからチェコスロバキア(当時)のプラハ、つぎにルーマニアのブカレストへ転勤して、1943年(昭和18年)に、在ルーマニア公使館に勤務中に、三等書記官に昇進した。
 領事館員はウイーン条約によって、外交官としてみなされておらず、三等書記官に任命されたことによって、杉原ははじめて晴れて外交官となった。
 
 その翌年、すなわち1944年に、杉原はそれまでの功績によって、「勲五等瑞宝章」を授けられている。
 日本政府は杉原がユダヤ人難民にビザを発給したことを、まったく問題にしてはいない。
 もし、杉原がどのような形であれ、勝手にビザを発給したために、本省より処分を受けていたとしたら、叙勲の栄誉に与るようなことは、ありえなかった。

 終戦とともに、日本政府はアメリカ占領軍の下で、外交権を否定され、一切の外交機能を奪われることになる。
 そこで外務省は機能が’大きく縮小されるのにしたがって、人員整理をすることになる。
 このもとで、多数の職員が依願退職の形をとって、外務省を去っていった。
 外務省の定員は昭和21年に「1,260人」であったが、翌22年には「1,563人」まで整理される。
 つまり、1/3の職員が退職することを求められたのである。
 杉原もその中の一人にすぎなかった。
 当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に精励したことに感謝する私信と、特別に金一封まで贈られている。
 このとき、杉原とともに700人近くが、同時に退職したのである。
 杉原が外務省を追われたというのは、作り事である。

 杉原千畝がビザを発給したことが、"日本のシンドラー"として、無理に美談として仕立てられた。
 これは、戦前、戦時中にわたる日本という国を、悪者にしたてようとする知識人・ジャーナリストたちの作為によるものだったのだ。
 もっとも、杉原の美談が戦前、戦時中の日本を不当に辱めるためにでっちあげられたものであっても、日本のイメージを世界的に良いものにしたとはいえる。
 杉原はエルサレムのホロコースト記念館の中に、特別にコーナーが設けられて、顕彰されている。
 イスラエルでは、杉原の肖像画切手となって、発行されている。







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2010年7月12日月曜日

: 「人間はみな平等だ」という大ウソ

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● 2009/04[2007/03]



 そもそも親子が仲睦まじいというのが、俺には耐えられない。
 父ちゃんなんてもんは、煙ったくて、オッカネエくらいでちょうどいい。
 マイホームパパなんて、いつもニコニコ笑っていて、子どもの気持ちがよくわかる、ものわかりのいい父親が理想だなんてことになった頃から、どうにも教育がおかしくなってきた。
 子どもの気持ちなんて、そんなものは、大人なら誰にでもわかっている。
 どんな大人だって、昔は子どもだったのだから。
 でも、「駄目なものは駄目」なんだと父親が教えてやらなきゃいけない。
 そういうことを教えてやれない、物分りのいい父親が多すぎる。
 オヤジがガキに媚を売ってどうする。
 結局は自分が可愛いだけのことじゃないか。
 父親っていうのは、子どもが最初に出会う「人生の邪魔者」でいいのだ。
 子どもに嫌われることを、父親は恐れちゃいけない。

 中学時代に、近くにお金持ちの子どもが行く市立の進学校があった。
 頭はいいし、女の子にもて、制服までが洒落ている。
 野球の試合をすると、こっちは馬鹿で貧乏で、しかも格好がダサイ。
 グランドで向いあった瞬間から、皆うなだれるしかない。
 おまけに、肝心の試合までコールド負け。
 その私立校は、野球がむちゃくちゃ強かったのだ。
 何一つとしてかなわない。
 徹底的に打ちのめされるだけだったのだ。

 「人間はみな平等だなんていうウソ」を、あの頃から叩き込まれてきた。
 そもそもウチの近所のなんて、子どもが「医者になりたい」なんて言えば、親は「無理だよ、オマエは馬鹿なんだから」。
 「新しいグローブが欲しい」と言えば「駄目だよ、ウチは貧乏なんだから」。
 それで終わり。
 「馬鹿と貧乏」の2ツで、ほとんどの問題が解決していた。

 「一所懸命努力すれば、きっとできる」なんてことは絶対言わない。
 「オマエは馬鹿なんだからやめときなさい」
 「学校なんて行かなくていいよ、どうせアタマがわるいんだから」
 「欲しけりゃ、大人になって金持ちになったら買いな。ウチは貧乏だから買えないよ」
 そういうことの繰り返しだから、子どもは自然と自分の分というものをわきまえるようになる。
 諦めたり、我慢したりすることを、当たり前のこととして憶えていくわけである。
 要するに、「本当に貧乏だった」のである。
 けど、そうやって子どもに我慢を教えることが、一つの教育であることを、たいがいの親は知っていた。
 なぜなら、子どもが大人になったとき、そこに待っているのは、「駄目なものは駄目」な世の中だから。
 世間の風は冷たくて、我慢出来ない人間は、落伍するしかないということを、誰もがよく知っていた。

 子どもは素晴らしい、子どもには無限の可能性がある。
 今の大人は、「そういうふざけたことを言う」
 子どもがみんな素晴らしいわけなどあるはずがないだろう。
 残酷な言い方だが、
 「馬鹿は馬鹿だ」。
 足の遅いやつは遅いし、野球がどんなにすきだって、下手なヤツはどんなに練習しても下手なのだ。
 そんなことは分かりきっているのに、世の大人は平気で、本気で努力すれば誰でも一流になれる、なんていうウソを臆面もなく言う。
 そうじゃないだろう。
 「才能のある人間」が、誰よりも努力して、「ようやく一流になれる」という話だろう。
 才能のないヤツがどう頑張ったって、屁の役にも立たないのだ。

 受験にしても、社会に出てからの競争にしても、少し先には完全な勝ち抜き戦が待っているというに、だ。
 その中で戦っていかなきゃならんのに、誰でも無限の可能性があるなんていうことにしてしまったもんだから、逆に、落ちていく人間に対しては、その大半だが、愛情のかけらも持たなくなる。
 「誰でも無限の可能性がある」という前提では、オマエの「努力が足りない」という結論になってしまう。
 どんなに努力したって、できないヤツはできないのだ。
 なんでも努力のせいにして、「人間には本来、差がある」という現実をウヤムヤにする。
 おかげで、今の子どもは、その努力すらしないで、夢さえみていればいつかかなうと思うようになる。
 となれば、少し年を経ると「自分探し」に向かわざるをえなくなってくる。

 そういう子どもの状態で、いきなり社会にほっぽり出されるから、アタマがおかしくなる。
 自分の思い道理にならないことを、何でもかんでも人のせいにする。
 それで慌てて、ウチの子どもはどうしたらいいんでしょうなんて、テレビの電話相談なんかに泣きついてくる。
 そんなヒマがあったら、自分の子どもに「オマエなんかにゃ無理だったんだよ」と言ってやれよ、と思う。
 「オマエが間違っているんだよ」と。

 努力すればなんとかなるなんて、おためごかしを言っていないで、子どものころからちゃんと叩き込んでおいてやった方がいい。
 人間は平等なんかじゃない
 「お前には、その才能がないんだ」
と、親が子どもに言ってやるべきなのだ。
 いくら努力したって、駄目なものは駄目なんだと、教えてやらきゃいけない。
 そんなことを言ったら、子どもが萎縮してしまうって。
 自分の子どもが、何の武器をもっていないことを教えておくことは、ちっとも残酷なことじゃない。
 せめて子どもが世の中に出たときに、現実に打ちのめされて傷ついても、生き抜いていけるだけのタフな心を育ててやるしかない。
 子どもの心を傷つけることを恐れちゃいけない。

 欲しいものを手に入れるには、努力しなきゃいけない。
 だけど、どんなに努力しても駄目なら諦めるしかない。
 それが現実なのだといことを、子どものうちに骨の髄まで叩き込んでおくことだ。
 それが、父親の役目だろう。







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: 死んだらどうなるか、死ねば答えが出るだろう

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● 2009/04[2007/03]



 神様を信じていようといまいと、「死ねば答えがでる」わけだ。
 死んだらどうなるか。
 それは誰にだってわからない。
 死後の世界を見た、とかいう話のあったけど、あれは死んだのではなくて、あくまでも限りなく死につかづいたということだけの話だ。
 完璧に死んでしまってから、この世に戻った人はいない。
 つまり、こういうことだ。
 死んだらどうなるかを、実際に体験して知っている人間はひとりもいないということだ。
 
 誰でも、最後は死ぬわけで、死ぬのは恐ろしいけど、その反面で面白いこともある。
 「死ねば、死んだらどうなるかが、わかるのだ」
 正確にいうなら、「わかるかもしれない」、か。
 というのは、死んでしまったら何もわからなくなるという可能性もある。
 人が死んだら、バラバラの元素に戻るだけで、わかるとかわからないとかいう前に、存在そのものが消えてしまう、という考え方もある。
 どんなことにも、「解答を求めてしまう理科系人間」としては、この結末がいちばん情けない。
 「答えはわかりませんでした」
という答えが、正解なのかもしれないが、勘弁して欲しい。
 ただ、情け無いけど、その可能性がいちばん高いかな、とは思う。

 それこそ理科系的に考えれば、結局は無に還るだけ、元素に戻るだけなんだろう。
 人間の意識というものも、結局は物質から構成されているものから出てくるのだとしたら、元素がバラバラなった時点で、その存在は消えるということだけのことだ。
 恐山のイタコが、あの世から魂を呼び戻すなんていう話は信用していない。
 魂とか霊なんて、人間の想像の産物だろう。
 基本的にはそう考えている。
 でも完璧にそう信じているわけでもない。
 心のどこかには、もしかしたら、という思いがある。

 最先端の物理学の本を読むと、量子力学の不確定性原理なんていって、
 「あらゆるものは振動である」
だとか書いてある。
 そうすると、人間の思考ってやつも振動で、魂も同じように、目に見えないけれど振動であると考えたら……。
 地球には、これほどウルサイ星はないってくらい、宇宙空間に電波を放射している。
 その電波も振動であって物質じゃない。
 「物質じゃないないものが、この宇宙には確かに存在している」
 それなら、人の魂だって、物質としての肉体が滅びたあとも、その振動状態で存在しているかもしれない。
 荒唐無稽な話といえばそれまでだ。
 けれど、少なくとも、死ぬということは、その荒唐無稽な考え方が正しいか正しくないか、死んだ後のことがわかるかわからないか、の賭けに出るということでもある。
 「それだけは、ちょっと楽しみだなと思う」

 世界は今頃になって、地球温暖化のことを騒いでいるけれど、ほんとはもっと昔から、いろいろな事が起きているはずなのだ。
 微妙な変化が積もり積もって、それが誰にだってわかるくらいのおかしな天気になって現れているわけだ。
 すでに、かなり手遅れなんじゃないかな。
 何でもそうだけど、おかしいということに気がつくのは、たいてい手遅れになってからなのだ。
 なんとなく心の底でそう感じているのは、俺だけじゃないはずだ。
 「手遅れ」という言葉はきついけど、もう行き着くところまでいって、
 「なるようになるしかわからない」
とわかっているんだと思う。
 少なくとも、今の世界情勢を考えれば、この地球上の六十数億人が手に手をとって、世界を滅亡の淵から救おうと立ち上がるなんて未来は、残念ながらとても想像することはまるでできいない。
 滅亡の危機に気づいたときには、いくらなんでもまい合わないだろうことは、容易に想像できる。

 俺もそうだけど、結局誰もが不安を抱えながら、
 「自分が死ぬまでは、なんとか保つだろう
っていう、その程度の考えでいるわけだ。
 子孫の代のために、なんとかしてやりたいって気持ちもなくはない。
 だけど、その方法がわからない。
 明日から電機を使わない、クルマに乗らないとか、そういうことができるのか?
 そもそも、「その程度のことで、なんとかなる問題なのか?
 何もしないよりマシというけど、何もしないほうがマシということも、現実にはあるんじゃないか。







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: 友達なんていなくても人は生きられるのだ、とどうして教えない

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● 2009/04[2007/03]



 人類がこの地球に出現して、どのくらいたったか知らないが、みんな死んでおり、死ななかった人間はひとりもいない。
 人間は誰でも死ぬ。

 「人生のゴールとは死ぬこと」なのだ
 競争なら、早くゴールに着いた方が勝ち。
 だったら、「早く死んだ方が勝ち」じゃないか。
 「人生は、長生きすりゃいいてもんじゃない。」

 子どもがイジメられて、仲間はずれにされて、自殺するという話をやたらと聞く。
 イジメがどうのという問題じゃない。
 仲間はずれにされたら生きていけない、と考える子どもが増えているということだ。
 ということは、クラスのメンバーであることのほうが、生るとか死ぬってことよりも重要だと、子どもが感じているということだ。
 なのに、大人は誰も、

 友達なんていなくても、人は生きられるのだ
」 
 というすこぶる簡単なことを言ってやらない。
 個人とは、個性を大切にするのが現代社会の特徴だ、なんてみたいなことを言うけれど、現実はその反対だ。
 実際には、個人の命が社会という巨大な機械に組み込まれた部品の一つになっている。
 しかもその個人の代わりはいくらでもいるのだ。
 だから、クラスのメンバーであることが、生死よりも大きいものだと感じるようになる。

 戦争が終わって、人は自由になった。
 自由になった個人は、自由になった自分にすごい不安をいだいている。
 「なんでも自由にやっていい」と言われた途端、何をしたらいいかわからなくなってしまった。
 だから、誰でもいいからリーダーにくっついていこうとしたり、なんとしてでも友達の輪の中に入れてもらおうとする。
 だから、
「 自分はいったいだれなんだろう 」
ということで、「自分探し」とかが、今の若い人のテーマみたいになっている。
 誰かに
「 お前は◯◯なんだ」
と言ってもらわないと、自分が何者だかわからなくなっている。
 若者が性懲りもなく、わけのわからない宗教だの教祖だのに騙され続けるのも、「金で買えないものはない」なんて下品なことをいう金の亡者がヒーローになってしまうのも、子供たちが自殺するのも、その根源には同じ問題があるのだ。

 だいたい、今の社会は、
 「人生とはなにか」
 「人の生きる意味は何か」
みたいなことを言い過ぎる。
 それが強迫観念となってしまっている。
 そんなことを言う、
 「大人が悪い
のだ。
 自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんて、絶対にわからないくせに。

 天国や地獄が本当にあるかないか、神様がいるかいないか、誰も証明したことがないわけだ。
 そういう曖昧な状態なのに、
 「生きる意味を探せ」
なんて言われたら、だれだってまように決まっている。
 自分の能力だけで、その迷いから抜け出せる人間なんて、ほんの一握りしかいないのだ。
 宗教というのが生まれたのも、つまりは、そういうことがわからないからだ。
 もし、「死ぬことが怖くない」ということになったら、宗教なんてお払い箱になる。
 人が宗教に頼る最大の理由は、やっぱり「死への恐怖」なのだ。
 死後の世界は誰も知らないから、それを教えてくれる宗教を求めるわけだ。
 そして、「天国と地獄という概念」が生まれたわけだ。

 すべての宗教がそうだと言うつもりはないが、大昔からそうやって金儲けをしてきた人々がいるのは事実だろう。
 天国と地獄があるとか、神様がいるとjかいう話は、物心がつく前から、心に擦込まれてしまっているのだ。
 キリスト教だの仏教だのを信じるとか信じないとかいう前に、周りからそういう話を聞かされて子どもは育つのだから。
 神という言葉を頭の中から取り払うのは、ほとんど無理なんじゃないんだろうか。
 その言葉が頭の中にある限り、完全に信じてはいなくとも、心のどこかにそういう存在が絶対にいないとはとは限らないという思いが残るのだ。
 もっとも、いわゆるキリスト教的な神は、俺にはあまり馴染みがない。
 昔の日本人がよく行ったように、
 「お天道様が見ている」
という言い方のほうが、おれの心にはしっくりする。

 何をするのもお前の自由だ、でもお天道様が見ているんだよ

という感覚が、神様と人間との関係で言えば、いちばん理想的な距離感だと思うのだ。







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2010年7月9日金曜日

★ 全思考:死ぬことが、怖くてたまらなかった:北野武


● 2009/04[2007/03]



 死ぬのが怖くて、どうにもならない時期があった。
 高校から大学にかけて、毎日のように「死について」考え、死ぬことに怯えながらいきていた。
 臆病者が微かな物音や何かの影に冷や汗を流しながら、夜の墓場を散歩するみたいなもんだ。
 些細なことに気を病んで、自分は癌になったんじゃないかと思い込む。
 このまま死んでしまったらどうしよう。
 そういうことばかり考えていた。

 死んだって話を聞いて、俺の心に浮かんだのは「ああ、アイツは死んだんだ」という、ただそれだけの感想。
 人が死んでも、世の中には何の変化もない。
 ただそいつが「イナイ」ってだけの、昨日と同じ今日が眼の前にあるだけ。
 それだけのこと。
 その呆気なさが、身に応えた。
 人が死んだら「ただいなくなるダケ」だと知った。
 天国も地獄もあったもんじゃない。
 そして、生きている人間の記憶から、死んだ人間はいとも簡単に消えてしまう。
 結局のところ、心に浮かぶのは「ああ死んだんだ」なんて、あまりにも簡単な思いだけ。
 生きている人間は、死者とは無関係の世界を生きていく。
 その殺伐とした事実に、ひどく衝撃を受けた。
 ああ死んだんだ、それで終わりよって。
 だから、死ぬのが怖くてたまらなかった。
 だけど、どうすりゃ自分だけ死なずにいるなんてことができるだろう。

 人の生き死には、ただの「運」だ。
 運ということは、自分だっていつ死ぬかわかったもんじゃない。
 今、自分が死んだら、きっと何も残ならない。
 「北野武」という人間が生きていたなんてことは、地面に落ちた雨粒の一滴が、あとから降ってくる大雨の中であっさり消されてしまうみたいに、すぐに忘れ去られてしまう。
 あっさりと忘れられてしまうくらい、自分の人生が空っぽということが、無性に恐ろしかった。
 何もしないまま、ナイナイ尽くのままで死ぬのが、嫌でたまらなかった。
 自分がちゃんと生きたという感覚が、どこからも沸いてこなかったのだ。
 
 死んだら人間はどうなるとか、天国や地獄があるかとか、形而上学的な問題を思い悩んでいたわけではない。
 自分が「生きているという快感」がないまま、生きたという記憶もないまま、この世から消えるのが怖かったのだ。
 快感といっても、必ずしも楽しい思いとは限らない。
 たとえ酷く苦しい体験だったとしても、自分がいきているということが味わえれば、それでよかった。
 あの頃恐れていたのは、「死そのもの」というより、じぶんの思い通りに生きられない、窮屈で退屈な人生だったかもしれない。
 もっとも何がしたいとか、どんな人間になりたいとか、あるいはこういう生活がしたいとか、そういう具体的なビジョンがあったわけでもない。
 むしろ、そういうものが何にもないことが怖かった。
 何をしたらいいかもわからないまま、川の流れに呑み込まれるように人生を生きて、死んでいいものなのだろうか。

 母親のことは、今までにさんざん話してきた。
 一言なんかじゃとても説明できないけれど、ともかくよく働く人で、そしてこれ以上はないというくらいの現実家だった。
 芸術とか哲学とか文学とか、そういう類のモノの価値を、あの人は全く認めなかった。
 そんなものは「人生の無駄遣い」いであった。
 今になって考えれば、それはそれで一つの知恵だし、哲学といっていいくらいの「一つの思想」だった。
 俺は物心ついた頃から、そういう家で育ったわけである。
 父親は典型的な下町の職人だった。
 とにかく子どもの頃から親父とまともに会話した思い出がひとつもない。
 ほんとに小さな頃、一度だけ江ノ島の海に連れて行ってもらったことは覚えているけど。
 ペンキ屋の職人で、仕事場と飲み屋と家を、ハンコで押したみたいに行き来して、稼いだ金はあらかた飲み代に消えていたんじゃないかと思う。
 そんな調子だから、ウチの生活はお袋を中心に回っていた。
 生活も家計も、子どもの進路も何もかも、お袋が決めていた。
 昼は土木工事のヨイトマケ、夜はおそくまで内職。
 そういう生活の中で、あの時代に、息子3人を大学に通わせ、娘も高校にいれた。

 お袋の考えは俺の進路は、理系の大学を出て、どこか大きなメーカーに就職するという以外にはあり得なかった。
 そしてその決定は、家族にとっては絶対だった。
 だから俺も明治大学の理工学部に入った。
 このときは、このまま普通に大学を卒業して、堅気のサラリーマンになるものだとばかり思っていた。
 このために母親がどれだけ金を工面して、俺を大学に通わせているかをよく知っていた。
 兄貴が自分の学問を犠牲にしてまで助けてくれているのも、わかっていた。
 母親が考えた以外の選択肢なんて、自分自身にも考えられなかったのだ。
 俺自身の脳みその働き方は、かなり理科系的だ。
 今でも数学の問題を解くのは楽しみだし、オイラーの法則とか非ユークリッド幾何学なんて話を聞くと妙に心が騒ぐ。
 もし数学者になっていたら、どんな人生だったろう、などと夢想してしまうのだ。
 映画監督という、昔には思っていなかった仕事をするようになっても、やっぱり俺は理科系だなと思う瞬間がある。
 シナリオを書いていて、因数分解みたいな作業を無意識のうちにやっている自分に気づくのだ。

 4年生のときが1970年。
 大学は60~70年安保で、学生運動の真っ盛りだった。
 大学なロックアウトされていて、授業はほとんど休講。 
 卒論さえだせば卒業させてやる、と言われる時代だ。
 世の中高度経済成長で、音楽とか演劇とか、文化的なものが世の中に溢れはじめていた。
 俺も大学には行かずに、新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていた。
 ジャズ喫茶での話題といえば、実存主義が花盛りで、サルトルとかボーヴォワール、それからコリン・ウイルソンなんていうのが人気だった。
 理工学部機械科の学生には、とにかくチンプンカンプンは世界だけに、それだけ憧れが募った。
 俺がすらすら喋れる話題といえば、ホンダのエンジンがどうしたこうしたというくらいなものであった。
 理科系の大学を出て、大手メイカーに就職するのが人生の成功コースだという、戦後ずっと続いてきた母親じこみの価値観が、ジャズ喫茶で遊んでいると、とんでもない時代遅れに思えたりもした。

 ある日、いつものようにジャズ喫茶のある歌舞伎町に向かうとき…。
 ふと、とんでもないことを思いついた。
 「そうだ、大学をやめよう」
 どこからそういう考えが降ってきたかは、よく憶えていない。
 母親がどれだけ苦労して、俺を大学に通わせているかを考えれば、4年生にもなった今ここで大学をやめると言い出すことが、どれほどの心痛を与えるかはよくわかっていた。
 それは、それまで俺を育ててきた「母親を捨てる」ということだ。

 自分のことを考えても、あの時期に、あれほど死を恐れていなければ、ああいう決断を下せたとは思えない。
 もしかしたら、いつまでも巣立ちできずに、母親の敷いたレールの上を歩いていたかもしれない。
 もっとも、あのまま母親の思い通りに人生を送っていたとしても、それで不幸になったかどうかはわからない。
 ビートたけしという芸人が、このよに存在しなかったことだけは確実だけど。
 どれはまた別の話だ。





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2010年7月8日木曜日

★ アニメ文化外交:日本人が気づかぬうちに:櫻井孝昌

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● 2009/05




 われわれ世代はは欧米のエンターテイメントコンテンツに関して、どこかにコンプレックスを持っており、自分たちのものがユーロッパやアメリカで受け入れられるわけはない、と思っている。
 コンテンツ業界のある年代以上の方でも、そうおっしゃる方は多い。

 アニメが世界で受けている」理由はいくつもあげられるが、その大きなポイントは、
①.物語の深さ
②.キャラクターの魅力
 の2つをあげることができる。
 まさにこの二つこそが、
 「アニメーションは子どもが観るもの」
というアニメーション業界に歴然とあった呪縛からアニメを解き放ち、世界に冠たるコンテンツに成長させていった原動力なのである。

 1970年代以降、世界各国に放送局が増え始めた。
 と同時に、日本のアニメーションが世界各地で観られるようになった。
 理由は簡単。
 放送枠すべてを埋めるだけの番組を作ることが難しく、放送枠を埋めなければいけない放送局に、もともと国境を越えやすいコンテンツといえる日本製のアニメーションはまさにうってつけの存在だったのである。
 輸入された日本のアニメーションを時刻の制作物として見ていた人がたくさんいたのが、このころの話である。
 無国籍なキャラが多数登場してくるのは、日本のアニメーションの特徴のひとつでもあったから、そう誤解する人が多数いてもなんら不思議な現象ではないだろう。

 こうして、日本のアニメーションは着実に世界の人に当り前の存在になっていった。
 アニメといえば日本製のアニメーションを指すようになっていったわけだが、当たり前になると同時に、当然ながらアニメに馴染んだ年齢層は上へと広がっていく。
 世界のアニメーション制作会社が相も変わらず"アニメーションは子どもが観るもの"という常識に縛られているなかで、映像表現のの一手法としてアニメーションを捉え、その可能性を追い求め、年齢の呪縛にとらわれず、クリエーターが作りたい作品を作り続けたのが日本のアニメ制作会社である。
 多数のキャラクター同士が複雑にからみあい、「主人公が成長していく」といった物語を醍醐味とするアニメが世界中に受けいれられていくのは
 "乾いたスポンジに水が入っていくようなもの"
だったのだ。

 20世紀の映像系エンターテイメントコンテンツの世界は、アメリカ型グローバリズムを中心に動いていったといっても過言ではないだろう。
 ハリウッドの映画やデイズニーアニメーションは世界中の映画館やテレビで上映され、エンターテイメントの中心は大方の場合そこにあった。
 ハリウッド映画やアメリカのテレビ番組を週に何本も観ながらその時代の人は大人の階段を上っていったわけだ。
 当然ながら、そうした映像で知ったこと、感じたことが個人のアイデンテイテイを形成する血になり肉になっていったことは間違いない。
 アメリカという国は、ハリウッドの映画やロックミュージックを通して、言ってみればどこか父親や母親のような存在になってしまっていたのである。
 これと同じ状況を現在まさに世界にもたらしているのが、日本のアニメだと私は感じている。
 私にとってのハリウッド映画やロックンロールは、彼らにとってのアニメーションだったわけである。
 
 ではなぜそうなったのだろうか。
 改めて述べれば、それは
 「アニメーションは子どもが観るもの」
という世界の常識を、世界全体レベルでいえば、
 「唯一無視してアニメが作られて」
いたからである。
 子ども時代に親しんだアニメを少年少女時代になっても観たい、高校大学生になっても観たい、大人になっても観たい、そんな欲求に「日本のアニメだけが」が応えてくれたわけである。

 では、アニメは、そうした状態をあらかじめ予測して作られていたのであろうか。
 答えは「否」である。
 アニメの特徴に「多様性」があるという点は前述したとおりであるが、まさにそれゆえに子どもが観るものから大人の観るものまでアニメは作られているのである。
 ただし、重要な点は、戦略的に多様なタイプのものが作られたのではなく、結果としてそうなったということである。

 アメリカの映像エンターテイメント産業のグローバリズム戦略では、世界をマーケットに、基本的に最大公約数的な発送で作品が作られることが多い。
 とくに、「国境を越えやすい」アニメーション作品に対しては、なをさらそう考える。
 となると、「アニメーションは子どもが観るもの」という世界の常識にそって、アニメーション作品は作られていく。
 その延長線上で、「親が見て"も"楽しいもの」であればなおさらよいわけだ。

 ところが、日本においてのアニメ制作は、基本的にきわめてローカリズムの考え方に基づいて行われてきた。
 つまり、日本の視聴者を対象にし、自分たちが作りたいもの、観たいものを作る、という考え方でアニメを作成してきたわけである。
 したがって、ここには「アニメーションは子どもが観るもの」という視点・前提が存在していない。
 そのため、子どもが観るもの、大人が観るもの、子どもも大人も楽しめるものと、およそありとあらゆるパターンのアニメが作られ、「多様性」を形成していった。
 アニメ制作におけるタブーが日本では少なかった(というより限りなくないに等しい)という点も、多くのクリエイーターをアニメーションの制作に向かわせることになった。
 かくして、映像表現手段のひとつとしての可能性を求めて、多くのクリエイーターがアニメーション制作に向かうこととなった。
 脚本、作画、演出、撮影……、アニメーション制作工程のあらゆる場面において、日本のアニメーションは進化を続け、「アニメ」という世界のアニメーションのなかでも特徴的な存在になっていった。
 
 繰り返しになるが、アニメは元来、世界を向いて作られていたわけではない。
 「独自の進化形態」をたどったアニメの素晴らしさを世界の若者たちが発見してくれたわけである。
 とくに21世紀に入っての「人気の過熱ぶり」は、当の日本人自身が気づかないほどのレベルにまでなってきている。
 では、なぜ21世紀になって、急激な勢いでアニメは世界に浸透して」いったのであろうか。
 それを下支えしているのがつぎの二つである。
①.インターネットによる情報伝達のスピード
②.動画を流せる(あるいはダウンロードできる)ブロードバンド環境の整備
 である。
 が、その一方で、このインターネットによる人気の過熱は、諸刃の剣として違法ダウンロードによる売上自体の縮小という危機をも日本のアニメ業界にもたらしている。
 20世紀の映像系エンターテイメントコンテンツの世界がアメリカのグローバリズムを中心に動いていたのに対して、極めてローカリズムの概念で作られていた日本アニメが世界のマスを握ってしまったのである。

 「日本人自身が気づかぬうちに









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2010年7月7日水曜日

: 「中抜き現象」

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● 2009/02


『 
 インターネットは、あらゆるビジネスに「中抜き現象」をもたらす、と言われている。
 モノの流通では問屋機能が弱体化させられいるし、ネット書店によって街の本屋さんがどんどん廃業に追い込まれている。
 
 ニュースの発信元から情報を得て、それを加工して大衆に提供する仕事がジャーナリストとすれば、大衆に直接、情報を示すことのできるネットの機能を発信元が上手に活用するようになれば、中間の処理業者であるプロのジャーナリストの役割は縮小していく。
 それを示唆する現象が出ている。
 産経新聞がはじめた「ウエブ・ファースト」では、「法廷ライブ中継」を行っているが、これがネットユーザーにはすこぶる好評なのだ。
 新聞の裁判記事は、紙面上のスペースに限りがあるたmけエッセンスに絞らざるをえない。
 「法廷ライブ中継」では、話題となった刑事事件の一言一句を細大もらさずサイト上に中継する。
 法定内からメモ書きで記事をピストン輸送し、パソコンに打ち込むので、ライブより多少の遅れは出るが、この一問一答を読み続けるという被告人の微妙な心の揺れが伝わってくる。
 これが、ネット読者に受け、アクセス数がハネ上がるというのだ。
 「法廷ライブ中継」は、ネット時代の新しい報道の在り方を開拓したといえよう。

 本や雑誌のコンテンツを、ネットに配信したり専用プレイヤーに蓄積させるという電子化もどんどん進んでいる。
 ここ数年、めざましい伸びをみせているのが、漫画をネット配信するビジネスだ。
 漫画雑誌や単行本で出版された作品の二次利用が大半だが、ケータイ向けに書き下ろし作品を発表する漫画家もボツボツ出てきている。
 漫画に限らず小説や雑誌を、ネット配信で二次利用する動きは着実に広がっている。
 最大の電子書籍販売サイトは「電子書店パピレス」で、2008年末時点で掲載刷数は9万タイトルを超えている。
 またケータイでは、「新潮ケータイ文庫」が2000年からスタートしている。
 大手出版社で電子書籍のビジネスに進出していないところは皆無といった状況である。
 インプレスR&Dの調査では、電子書籍の販売サイト数は2007年末で「577」である。
 2006年末から比べると1年で割も増えている。
 2007年の市場規模はケータイコミックを含めて「355億円」で、1年前の2006年度より「1.9倍」になっている。
 女子中高生だけという限られた年齢層には、数年前からケータイ小説がブームになっている。
 ケータイに細切れの文章が毎日ネット配信され、アクセス数が多くなれば紙の本として出版するというのが「ケータイ小説」である。
 2007年には文芸書のベストセラーの上位を席巻したが、2008年でピークアウトしたようだ。
 中高年世代は「読書はやっぱり、紙の本でなければ…」と、書籍の電子化を一蹴してしまう人は多いだろう。

 しかし、分厚くて重い事典・辞書類はすでに、「紙」よりも「電子化」の方に軍配が上がっている。
 事典辞書類の電子化は、必ずしもネット配信するものではない。
 専用のプレイヤーの中に多くの事典辞書類を記憶させるものだ。
 2003年ころから1台で使える事典、辞書の収録数が一気に増加し、すでに100冊以上の情報を蓄積しているプレーヤーも売りだされている。
 それが3万円から5万円で買えるのだから、ユーザーにとっては便利で安い。
 100冊すべてを紙の辞典辞書で揃えるとしたら、値段は20倍、30倍となり、重さはなん百倍にもなってしまうだろう。
 事典辞書の推定販売部数は2006年から2008年の3年間の平均で、年間650万冊ほど。
 その金額は約160億円で、2001年ころと比べると約3割減っている。
 一方、電子辞書の販売台数はメーカー推定では年間300万台ほどで、販売金額は約650億円。
 電子辞書は「紙」の4倍以上の市場規模になっているのである。

 カシオ計算機、シャープなどのメーカーは、英語の発音を確認できる音声機能付き電子辞書なども売りだしている。
 中学高校の英語教育の現場では、「家では紙の辞書を、学校では電子辞書で構わない」という指導がすでに定着している。
 2006年からは大学入試センター試験で英語のリスニングが導入されたことも背景にあるようだ。
 2011年度からは、小学校の5年、6年生で英語が必修化される。
 電子辞書はますます売れていくだろう。







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: 新聞の危機


● 2009/02



『 
 インターネットの原理や技術はアメリカで開発されたものであり、ネットの侵食による「紙離れ」が最も進んでいるのもアメリカである。
 国土の広いアメリカでは、日本のような宅配網はできていないので、新聞の発行部数は日本より少ない。
 2007年で「5千387万部」である。
 日本は朝刊夕刊をあわせて「6千852万部」である。
 全国紙と呼ばれるのは、USAトウデイ、経済紙のウオール・ストリート・ジャーナルぐらい。
 約1500社のローカル紙が都市に根を張っている。
 それが新手のネットビジネスに侵食され、新聞の広告ビジネスが脅かされいるのである。

 日本の新聞界はどうなのだろうか。
 21世紀に入って「新聞はネットのやられてしまう」と取り沙汰されてきたが、日本の新聞界は今や、落城前夜を迎えている。
 日本新聞協会が、加盟している新聞・通信88社から2008年1月時点で調べた結果によると、すべてがウエブサイトを開設しており、合計176サイトを数える。
 連携の動きも広がっている。
 共同通信社が音頭をとって2006年12月には、地方紙など53社が連携した「47news(よんななニュース)」がスタートしている。
 有料制のサイトは、ごく僅か。
 ほとんどの新聞社サイトは閲覧無料である。
 新聞社のネット事業で、採算がとれている会社はごくわずかしかない。
 「MSN産経ニュース」など5サイトで2008年10月に計9億2500万の月間ページビューを記録した産経だけが黒字である。
 ネット事業全体では、日経だけがなんとか黒字である。

 産経新聞社は2007年10月、
 「ウエブ・ファースト」
に踏み切った。
 マイクロソフトとの共同ブランドサイト、MSN産経ニュースを発足させるにあたり、紙とウエブの編集体制を統合し、スクープ記事も紙媒体の発行を待たずにニュースサイトに掲載することを宣言したのである。
 日本の新聞界では初めての試みである。
 日本の新聞社はネット報道に早くから着手していたが、記事の出稿はあくまでも「紙優先」だった。
 デジタル媒体用の速報記事を積極的に出そうという意識変化は起こらなかった。
 産経のようにこれだけ割り切った新聞社は他にない。
 多くの新聞社が、
 「総合メデイアグループを目指す」
などと標榜しているが、インターネットに今後、いかに対応していくか、腰が定まっていない。
 抽象論に終始しているだけで、ネット事業の具体的な経営戦略を描くに至っていない。

 ネット時代には、誰もが情報を発信できるし、ジャーナリストにもなれる。
 世の中の出来事に対し、ブログでコメントを加えれば、それはジャーナリスト活動の一つである。
 「ネット論説委員」「ネット解説委員」が巷に溢れでてきたともいえる。
 ネット上の情報と既存の新聞、テレビでの言説が交錯しながら、世論が形成されていく時代に入ってきた。
 ネットはジャーナリズムの在り方に変革を迫っている。
 既存のプロのジャーナリズムとは違った視点からニュースを発掘し、「おや」と思わす解説を加える
 「市民ジャーナリズム」
が勃興しつつあるのだ。
 市民記者が書いた記事を編集して、日々ニュースを配信する「ネット新聞」がその好例だ。
 ウエブサイトには、真偽あやふやな情報や人権侵害情報、無責任で為にする中傷などが氾濫している。
 「ネットの情報は、信用できない」
という不信感が根強い。
 ネット新聞に記事が掲載されても、謝礼はゼロか、ほんの薄謝である。
 それでも「表現」や「主張」をしたい市民はたくさんいる。
 もっとも、市民記者という呼称は素人記者と同義である。
 「事実確認が不十分」、「主観的すぎる」「ウッと思わせる、考えさせる記事が少ない」「文章がこなれていない」といった欠点が、ネット新聞にはつきまとう。
 既存の新聞社のような取材網があるわけではないから、一次情報の焼き直しが記事が多い。
 ただ、ネット新聞は誕生してたかだか数年である。
 決めつけた評価は禁物であろう。
 ヤフー、グーグルなどのニュースサイトや新聞社のサイトは、「紙の記事」の転載であるが、ネット記事は建前としてはオリジナルな記事である。
 一定の年季を経れば、ネット新聞はそれなりの影響力を発揮し、市民権を獲得する可能性がある。
 そうなると、「新聞離れ」の加速要因ともなってくる。







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