2010年2月22日月曜日
★ 不思議の国の特派員:あとがきに代えて:デビット・パワーズ
● 1992/10
『
1980年代に初めて日本に来たとき、以前から日本にいるアメリカ人が話してくれたことがある。
「
本を書こうというなら、今のうちに書いてしまうことだ。
3週間も暮らせば、とりあえず知りたいことは分かる。
3カ月たつと分からないことが出てくる。
3年たったら分からないことだらけで、頭の中がゴチャゴチャになってしまう。
30年近く日本で暮らして、来週80ページの本を出すんだが、中身は白紙同然さ。
」
4年間日本に滞在して、「さようなら」を言うころになって、この言葉の意味がよく分かるようになった。
私は日本の企業で働き、日本語を習い、たびたび国内旅行もした。
それでも頭の中は混沌としている。
日本のビジネスマンはイタリアやイギリス製の生地で洋服をしたて、その秘書はパリのブランド品で身の周りを飾っている。
まさに洗練の極致だが、一皮むけば西欧化はごく表面的な現象にすぎない。
日本も日本人も、ほかの国に較べると極めて異質な価値観に基づいて稿で牛手いるのだ。
こうした知識と体験を背景に、1987年10月には記者として東京に戻って来た。
今度の仕事はゴチャゴチャした頭の中を整理して、
「なぜ、日本がこういう行動をとるのか」
を伝えることである。
中身が白紙では済まない。
それから5年近く----もう一度「さようなら」と言う時期になったが、まだゴチャゴチャは消えていない。
理解不足というわけではない。
日本の社会を知れば知るほど、その複雑さが分かってくるのだ。
日本人はほかの国民と比べると社会への順応力が強いが、国民は1億2千万人もいる。
個人個人の動きが複雑に絡み合って、社会は絶えず揺れ動き、変貌を続けている。
この本は、日本の直面する問題について解決の道を模索しているわけではない。
ましてや日本を「叩こう」という意図などない。
しかし、私のコメントが何かを考える手がかりとなってくれれば、これびまさる歓びはない。
完全な社会などあり得ない。
私の母国である英国も同様で、改善の余地はいくらでもある。
英国との対比を試みたのは、日本と違ったやり方もあることを伝えたかったからにほかならない。
この5年間は本当に楽しい体験だった。
日本はユカイな物語の宝庫である。
二人揃って百歳の誕生日を迎えた人気キャラクターの「きんさん、ぎんさん」とか、税務署とドロボウが怖くて2億円の大金を竹やぶに捨てた人など、話題は尽きない。
日本は外国特派員にとって仕事がしにくい国である。
記者クラブ制度と頑迷な完了には手を焼かされたが、情報の入手が難しいわけではない。
問題は情報の量と質である。
日本は情報が多すぎる。
毎日毎日、毎時毎時、新聞、テレビ、ラジオから情報の洪水が流れ出す。
行く手にあるものを津波のように飲み込み、過ぎ去った後は、何かが分かるというより、ますます分からなくなる方が多い。
新聞やテレビの報道は事実を伝えるだけで、意味の解明は読者や視聴者任せになっている。
外国特派員にとってさらにやっかいな課題は、なぜ日本の社会がほかの民主主義とは違うルールで動いているのか、外国の人たちに説明しなければならないことだ。
日本についてリポートするのは難しい。
サハラ砂漠の砂の動きをリポートするようなものだ。
風で砂丘の位置が変わるように日本も変わりつつある。
一向に変わらないのは、飛行機を降りたばかりの外国人の言動である。
36時間前に日本についたばかりの若者と食事をしたことがある。
日本の話はよく知っていると前置きして、こんなことを言った。
「
ニュースに関するかぎり、日本にはたいしたことがないですね。
ボスニアや旧ソビエトを見てごらんなさい。
経済畑の人でなければ、日本の出来事に関心をもちませんよ。
」
』
【習文:目次】
_