2010年2月8日月曜日

: 名刺・思い出コレクション


● 2006/10



 あるコンテンツの最初の打ち合わせでのことである。
 面識のない者たちは、例によって、名刺を交換し、「初めまして」の儀式をしていた。
 だが、その中の若者数人が、ちょっと奇怪な行動に出た。
 名刺交換の代わりに、携帯電話を向け合っているのである。
 まるで、アリとアリが触覚で会話するかのような雰囲気だ。
 そう、彼らは携帯の赤外線通信機能を使って、お互いの名前や電話番号やメールアドレスなどのデータを交換しているのである。
 これには驚いた。
 一つの時代が終わったな、と思った。

 高度経済成長期、日本の猛烈サラリーマンにとって「名刺」は、武士における「刀」だった。
 企業戦士たちはこの薄い紙切れで、経済戦争を戦ったのである。
 確かに、名刺を交換するより、携帯でデータを交換するほうが、後で整理する手間がはぶけたり、機能的に便利でいい。
 いいことずくめなのであはあるが、何か寂しさを覚えてしまうのは、消え去り行く文化に対するノスタルジーだろうか。
 でも、仕事で初対面の人と携帯と携帯を向け合うのは、何か妙な感じがする。

 その理由を考えているうちに気がついた。
 携帯のデータ交換には「間合い」というものがないのである。
 武士と武士が剣を交えるときの、一瞬の間、緊張感の最頂点が携帯には欠けているのである。
 名刺は、向かい合った者同士が相手を値踏みし、息を合わせてそれぞれが自分の名刺を出し、それから一気に声を掛け合いながら交換し、受け取った名刺と相手の顔を見比べながら記憶するように、「間合い」が重要な要素を占めているのである。
 あっという間に勝負がついてしまう、「データ交換」では面白みに欠ける。

 そんなことのあった夜。
 家に帰って、思い立って机の中の名刺を整理した。
 その一枚一枚を眺めているうちに、まるで、正月の年賀状を読んでいるような気になってきた。
 このところ、音信不通のなつかしい人たちでいっぱいなのである。
 そのとき、思った。
 これ、名刺だから取っておいたんだよな。
 データだったら、とっくに削除していただろうな。
 古い名刺の束は、思い出コレクションでもある。

 という話をしたら、携帯組の若者に言われた。
 「そういうのが、重たいですよね。」
 削除できる軽さか‥‥。


<註:おじさんは孤独でさみしく、名刺という思い出コレクションに陶酔しやすいのだ>





 【習文:目次】 



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