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● 2009/07
『
「停滞」という言葉と概念は、もともと邦のものではない。
西洋さんのものだ。
キリスト教的世界観から発しているのか、大航海時代の理念がまだ消え去っていないのか、イギリスの産業革命から発しているのか、そのあたりはよくわからないが、でもとにかく、
「どこまでもはってんしていくばかりである、終わりはない」
というのは、西つ方の考えである。
おそらく、「最後は神の審判があるばかり」と勝手な考えに支えられているのだろう。
完全に誇大妄想である。
こういう異様な考えは、あとから参加したほうが急進化する。
それがアメリカだ。
アメリカはヨーロッパよりヨーロッパらしくなろうと無理をして、ヨーロッパを越えて、理念の国になっている。
「理念の国」というと聞こえはいいが、ようするに頭でっかち、現場では使えねえ連中のことを美的に言ったまでのことである。
東洋世界では、冬が来て春がきて、夏が来る。
まわっている。
人もまわっている。
生きているが、やがて死ぬ。
また生きる。
そして死ぬ。
ぐるぐるとまわる。
上に向かっていない。
この世が終わって、最後に神の審判などがくだされるなんてことはない。
社会がどんどん豊かになり続け、天上に向かうという概念が持ちにくい。
物成りがいいエリアでは、世界に斬り込んで積極的に世界を帰る必要がない。
停滞ではない。
成長がなければ停滞はない。
冬を停滞だと考えるのは不自然である。
夏がどこまでも成長していく時期であり、そのまま成長してゆけばいいのにと考えたところで、冬はやってくる。
成長と停滞を繰り返しているのではない。
ただ、夏と冬があるだけである。
植物が成長する時期があると思えば、やがて活動を停止する時期がやってくる。
待っていれば終わる。
ぐるぐるまわっているだけである。
だから停滞という概念はない。
落語は、そういう近代西洋的発展の世界とは別に存在している。
ちなみに、日本は、そういう近代的発展世界とは、最終的に同一化すまい、という気持ちを底に持ち続けているとおもう。
東京の真ん中に皇居を抱え、1500年以上続く王家を国の中心に抱えているのは、その明確な現れであろう。
落語は近代的発展とは別の世界に存在している。
日本は西洋が強制した近代的発展が、好きではない。
ペルリが突然、浦賀の沖にやってきて、力ずくで近代を始めさせた、と思い込んでいる。
だから「近代的方法はオレたちの方法ではない」と、心の底で思っている。
細かに分解して、全体像をとらえられなくなっても、核と法則を見つけだそうとするのが近代的思考である。
芯をみつけないと凍え死んでしまいそうな連中の、懸命なもがきである。
うちらは、物事を芯まで剥かなくても生きていける、ということである。
安政年間ごろから始まった、
「西洋がおしつけてきた近代という原理」
に対して、落語は黙って抵抗し続けている。
落語が残っていることじたいが、その原理への抵抗である。
西洋原理は、本来、人として生きていくのに関係ないものだ、少なくともオレたちにはあまり関係ない、という主張を続けているのである。
近代化が進み、日本家屋がなくなり、日本古来の衣装はイベントでしか着なくなり、西洋の国々と一見差異のないような生活をするようになっても、なを、日本人であることは何か、とフワッと考える人が増えると、そこに落語が用意されているのだ。
それは、
「すべてのモノを細かくした上で、原理を突き止め、突き止めれば反転して大きく広げ、普遍性を獲得したい」
という近代の異常な欲求を疑問に感じている、ということでもある。
人類全体へと広がる「普遍性への拒否」である。
近代が主張する普遍性を、落語はきちんと拒否している。
それは軍艦に対して江戸っ子の意気地を見せてやろうというレベルの、馬鹿馬鹿しい反抗でしかない。
さほど意味はない。
実効性も薄い。
だが、個人の心持ちとしては大きく力を発する。
「広がらなくてもいいだろう」、という主張である。
インターネットで世界につながり、飛行機で世界中に行かれ、いつでも携帯でどことでも連絡がとれようとも、「人間一人の大きさは変わらない」。
「起きて半畳、寝て一畳」、その広さがあれば、十分生きていける。
人の体には限りがあり、できることだって限りがある。
「無意味に広げるな」ということだ。
「広げるな」、という考えは、近代からは教えてもらえない。
近代の力は、日常生活とは関わりのない素晴らしい天上レベルで、その誇大妄想力を発揮していって、オレやハチ公の知らないうちに、何か変わっていくばかりである。
それを思い煩ってもいても、これも何もかわらない。
まずは、地べたにちかいところで生きていけ。
それが落語である。
』
【習文:目次】
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