● 1993/09[1992/08]
『
動物が変われば時間も変わる、ということを知ったとき、新鮮なショックを感じた。
「時間は唯一不変」のものだと頭から信じ込んできた。
時間にはいろいろある、と聞いて、何か一つ賢くなったような気がした。
この時、動物学を勉強し始めて10年以上たっていた。
別の意味でのショックも大きかった。
時間が違うということは、世界観が全く異なっている、ということである。
「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやってきた今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」
と、呆然とした。
それと同時に、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に、怒りを感じた。
本書はその怒りを「てこ」にして、自分自身への反省をこめて書いたものである。
このショックを機に、動物の世界観について考えるようになった。
おのおのの動物は、それぞれに違った世界観、価値観、論理をもっている。
たとえその動物の脳味噌の中にそんな世界観がなくても、動物の生活の仕方や、体の作りに、その世界観がしみついいぇいるに違いない。
それを解読し、ああ、この動物はこういう生活に適応するためにこんな体のつくりをもち、こんな行動をするのだなと、その動物の世界観を読み取って、人間に納得のいくように説明する、それが動物学者の仕事だと思うようになった。
そう想い定めてやったのが、終章で紹介した棘皮動物のデザインの仕事である。
近頃、外国とのまさq角ニュースを聞くにつけ、違う世界観を理解することの難しさがよくわかってきた。
同じ人類の間でそうなのだから、違う動物の世界観を理解するなど、よほどの努力をはわわなければできることではない。
しかし、その努力をしなければ、決して人間はさまざまな動物を理解し、彼らを尊敬できるようにはならない。
「サイズを考える」ということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。
私たちの常識の多くは、ヒトという動物がたまたまこんなサイズだったから、そうなっているだけなのである。
その常識を何にでも当てはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。
哲学は人間の頭の中だけを覗いているにすぎないし、物理や化学は人間の眼を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化することはできない。
生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。
今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を搾取し、勝手に納得していたもの、ではなかったのではないだろうか。
本書を執筆の途中で、沖縄から東京に引っ越した。
ヒトの歩く速度が違う。
しゃべる速さが違う。
物理的時間にきつく縛られた都会人の時間が、果たしてヒト本来の時間なのかと、疑問に感じてしまう。
生き生きとした自然に接していないと、人間はどうもすぐに頭の中を見つめはじめてしまう。
そして、抽象的になっていくもののようである。
抽象的になりはじめると、もう止めどもなく思考のサイズは大きくなり、頭でっかちになっていく。
都会人のやっていることは、果たして「ヒト本来のサイズ」に見合ったものなのであろうか?
体のサイズは昔とそう変わらないのに、思考のサイズばかりが急激に大きくなっていく。
それが今の都会人ではないだろうか。
体を置き去りにして、頭だけがどんどん先に進んでしまっている。
それが、現在の人類の不幸の最大の原因だと、私は思っている。
1992年4月 本川達雄
』
【習文:目次】
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