2010年8月18日水曜日

: 解説

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● 2009/07[2006/11]



 吉村昭が亡くなって3年がたつ。
 7月31日は祥月命日である。
 吉村昭の発病から死にいたる経緯については、本書収録の津村節子「遺作について-後書に代えて」に詳しいのでここでは省く。
 一つだけ記述しておくと、吉村昭は自らの死を自覚し、最期の時を選んだことである。

 吉村昭は弟の死を看取った『冷い夏、熱い夏』で
 「限界ぎりぎりまで生きてみたところで、苦痛に満ちた時間を味わわされるにすぎない。
 このような場合、患者は、自殺という行為によって苦しみから逃れたいと願い、それを実行に移すこともある。
 しかし、生を享けた人間の義務として、肉体の許す限りあくまで生きる努力を放棄すべきでない、と思う」
と述べており、これが吉村昭の死生観の究極の立場だろう。

 ここで眼を見据えておきたいのは、最後の入院をする前まで推敲に取り組んでいた「死顔」の原稿の内容と、人生の最期において点滴の管をはずし、カテーテルを引き抜いた吉村昭の行為との対比である。
 「死顔」にはみずから死期が近いと知った時、すべての延命処置を断って死を向かえることを理想とするが、
 「医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である」
と書いてある。
 この吉村昭の理想の死の形とは、最後の入院前までに到達していた認識である。
 それが入院後の7月18日には、
 「死はこんあにあっさり訪れてくれるものなのか。
 急速に死が近づいてくるのが、よくわかる。
 ありがたいことだ」
と書いている。

 この2つの記述には決定的な認識の違いがある。
 7月18日に吉村昭は、死そのものが近づいてきたこと、を完全に把握していた。
 それゆえ、「ありがたい」の言葉が自然に出てきた。
 18日から30日までは、「死」の深まりをじっと凝視してきた。
 そして30日朝、その死を把握しつくした
 吉村昭は人生の別れに一杯の酒と一杯のコーヒーを所望し、以後、すべてを断った。
 死が完璧にみずからの中で煮詰まった時、吉村昭は点滴の管をはずし、カテーテルを引き抜き、死の世界へと渡って行った。

 その場に居合わせた津村節子は、吉村昭がみずからの死を把握し、死の淵を渡って行くのを見た。
 「吉村昭が覚悟し、自分で自分の死を決めることができたということは、彼にとっては良かったことではないかと、今になって思っております。
 ただ、私は彼のそういう死に方を目の前で見てしまったから、----。
 まだ、生きている、とは思えないんです。
 あんまりひどい、勝手な人だと思います」
と津村節子はお別れの会で述べた。

 3年たって吉村昭の死が、一層の深まりをみせてきたことをしみじみ感じることができるようになったと思う。
 ここで一つ考えてみたい問題がある。
 発病から死までの間で、吉村昭の内部で死がいかに近づいてきたかは見てきた通りだが、作家としての吉村昭の内部でどういう変遷をたどってきたかに触れておきたい。
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 平成12年12月に短編集『遠い幻影』が文庫版で刊行された。
 その解説で僕は、
 「荒々しい経験をしたあと、人は穏やかで普遍的な世界を肯定する場所に居場所を見つけるにいたる。
 それが人生の自然なのだと吉村昭は言っているように思える。
 その一方で、その自然に我が身を任せることができない人もまた多い。
 それらの人生の微細を吉村昭は短編で写しとっているのだろう」
と書いた。
 これを読んだ吉村昭から手紙をもらった。
 そこには僕の説を受け入れた上で、
 「なんとなく自分が一つの道に入って歩みはじめているのを、かなりはっきり意識している」
ことを示唆し、それは
 「まちがいなく、現実には老いを少しも感じ無いなら、小説家として死の沼への道を確実に下り始めている思いをしているためです」
と告白してあった。

 作家とはこうした意識を大事にしつつ一歩一歩と自分を深めていく人間なのであろう。
 そういう生死の道を歩きつくした吉村昭の小説はいつまでも僕の心に残るにちがいない。

 平成21年5月  川西政明







 【習文:目次】 



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