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● 2007/09
『
わたしは、食堂では必要以上に口をきかないようにしている。
ときどき「大盛りで」を言い忘れることもあるほどだ。
店の人と口をきいて人間関係ができると落ち着けなくなる。
自分の家でも、釈明する以外、口をきかないようにしているのもこのためだ。
だが、口をきかなくても、同じ店になんども行っていると、顔なじみになってしまう。
毎回違うところでたべれば問題ないが、食堂もわたしの家も無数にあるわけではない。
以前、毎日のように近所の小さな喫茶店でランチを食べていた。
その店のランチが、味も代金も美人ウエイトレスもわたしの好みだったのだ。
ウエイトレスとは親しく口をききたいと思っていたが、きいたことはなかった。
ある日、妻と一緒にそこへ行った。
そのウエイトレスが「今日はお二人なんですね」と口を聞いた。
その言葉に、わたしは凍りついた。
妻は何も言わなかったが、妻の沈黙より衝撃的なことばといえば、
「さっき召し上がったハンバーグにヒ素が入っていました」
ぐらいだ。
テレビドラマなら、至極面白い場面だが、わたしの横にいるのは本物の妻だ。
そして不運なことにわたしは彼女の夫だ。
さらに不運なことは、妻は気性が荒い。
これまでわたしが五体満足で生きてこられたのが不思議なほどなのだ。
もし妻が穏やかな性格で、その上、他の男の妻で、別の星に住んでいたら、おもしろがっていられただろう。
最も不運だったのは、妻が昼食は家で食べるのかと聞くたびに、わたしは
「腹が減っていないから昼食はいらない」
と言って家を出て、5分後には、この店で毎日ランチを食べていたことだ。
ウエイトレスに罪はない。
この感じのいいウエイトレスに落ち度があるはずがない。
問題は妻だ。
そっとうかがうと、妻はよろこんでいる様子はなかった。
たぶん妻は、わたしが毎日一人で店のランチを食べていたと考えているだろう。
数秒後、凍りついた空気から無理やり立ち直ったわたしは、妻に
「いやあ、家を出るときは腹は減っていないのに、この店の前にくると急に腹が減るんだ、ふしぎだよね、空腹になるのはアッという間だね」
と明るく説明したが、妻は沈黙を通し、気まずい空気は消えなかった。
食べ終わると、幸運にも急な用事を思い出し、丁寧に別れを告げたが、妻はきっと腹いせに、----(夜のカレーライスに***を入れるかもしれない)----。
それだけで気がおさまってくれるのを祈った。
行きつけの店ができるとこういう結果を招くことになるのだ。
この出来事を経験したのち、わたしは決心した。
今後、妻とは食事に行かないようにしよう。
』
【習文:目次】
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