2010年12月15日水曜日

: レトロウイルスと高速変異

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● 2007/08



 ウイルスとは遺伝子情報の切れ端であり、自分では動くことも増殖することもできない。
 宿主に感染して、宿主の細胞の増殖機能を乗っ取ることによって、はじめて増殖できる。
 ウイルスは細胞内で自分自身を何千回も複製し、やがて細胞を破裂させて外に飛び出し、新しい細胞に移動する。
 科学者の大半はウイルスを「生きている」とは考えていない。
 自分だけでは増殖も代謝もできないからだ。

 レトロウイルスとは、特殊なウイルスの一集団のことだ。
 細胞の集合体である生物が、遺伝子情報からどのように作られるのかを説明しておこう。
 その道筋をを大雑把にいうと「DNAからRNAへ、RNAからタンパク質へ」ということになる。
 あなたの体を一つの町だと考えてみよう。
 そこに建てられる建物のすべての設計図が収納されている図書館がDNAである。
 特定の建物を建てようとしたとき必要になるのはRNAポリメラーゼという酵素で、この酵素は建物の設計図を転写して、それをメッセンジャーRNA(mRNA)に引き渡す。
 mRNAはその設計図を建設現場にもっていき、建物の建設、すなわちタンパク質の合成を指示する。

 科学者たちは長い間、遺伝子情報はDNAからRNAへの一方向にしか流れないと考えていた。
 だが、レトロウイルスの発見により(HIVもレトロウイルスだ)、それが誤りであることが分かってきた。
 レトロウイルスはRNAでできている。
 レトロウイルスは「逆転写酵素」という酵素を使って、RNAにある自身の情報をDNAに書き写す。
 つまり、普通のタンパク質合成時とは逆向きに情報を流している。
 RNAはコピー取りと届けものをするだけのメッセンジャーだと思っていたら、元の設計図を書き換えるという大胆なことをやっていたのだ。
 これを意味するところは非常に大きい。
 なぜなら、レトロウイルスはDNAを変えてしまうことができるからだ。
 DNAへと逆に向かうRNAの発見は、HIV治療として現在主流である「カクテル療法」の新薬開発につながった。
 この療法は、逆転写酵素の作用を薬で止めるプロセスを含んでいる。
 逆転写酵素の助けがなければ、HIVは自分の情報をDNAに書き写そうとしてもできないからだ。

 今のところ科学者たちは、HIVがワイスマンの壁を突き破って卵子や精子に入り込むとは思っていない。
 HIVに感染している母親がそれを子どもに引き継がせてしまうのは、出産時に母親と新生児の血液が混じり合うからだと考えている。
 通常は、親が持つレトロウイルスによって書き換えられたDNAをもった子どもが生まれてきても、その変異はたいてい有害なので淘汰される。
 もしそれが有害でなかったら、あるいは有益だったら、そのDNAをもった子どもは生き延びて子孫を作る。
 DNAに書き記されたウイルス情報は、永遠に遺伝子プールにとどまることになるのである。
 ウイルス由来の遺伝子コードがその生き物の遺伝子プールの」一部になってしまうと、どこまでがウイルス由来で、どこからその生き物独自のものであるかの判断は、簡単には線引ききなくなる。
 いまのところ、ヒトゲノムの少なくとも「8%」は、レトロウイルスとその関連の成分が人間のDNAに居座ってしまったものだと考えられている。
 これは「ヒト内在性レトロウイルス(HERV)」と呼ばれる。
 このHERVが人間の健康にどんな役割を果たしているのかについては、まだ研究がはじまったばかりであるが、HERVが健康な胎盤の形成を助けているとか、皮膚病の一種である乾癬との関連性を示す研究とか、いくつかの興味深い報告が出てきている。

 ジャンピング遺伝子も、おそらくウイルス由来なのではないかと考えられている。
 ジャンピング遺伝子は基本的に2種類ある。
 ひとつは「DNAトランスポゾン」で、カット&ペーストでジャンプする。
 もうひとつは「レトロトランスポゾン」で、コピー&ペーストでジャンプする。
 レトロトランスポゾンは、レトロウイルスと恐ろしいほどよく似ていることがわかった。
 自身の情報を他の遺伝子に差し込んで、DNAを書き換えるというメカニズムが同じなのである。
 レトロトランスポゾンはまず、通常の遺伝子のように自身をRNAに転写する。
 つぎに、そのRNAはゲノムの書き換え場所に到着すると、逆転写酵素を使ってレトロトランスポゾンのコピーを作り、それをもともとそこにあったDNAにさしこんでペーストする。
 ということは、トランスポゾンはレトロウイルス由来の遺伝子だと十分にかんがえられるではないか。

 ウイルスは変異の達人である。
 進化可能性の宝庫であり、その可能性をすばやく実現させる。
 ウイルスの変異速度は人間の変異速度の100万倍なのだ。
 明日になればウイルスのほとんどが、次の世代を産んでいる。
 それを数十億年のあいだ繰り返してきたのである。
 人間のゲノム内にいる存続ウイリスは、人間が生存と種保存の危機にさらされると、同じように危機にさらされることになる。
 人間のDNAの一部なのだから進化の利害は人間と一致する。
 おそらく人間は宿主としてウイルスに「ただ乗り」させてやり、ウイルスはその莫大な遺伝子図書館から遺伝子コードを貸しだしてきた。
 ウイルスはその驚異的は変異速度で、たまたま出会した有益な遺伝子を勢いよく変化させる。
 人間にはとてもできない芸当だ。
 ともかくウイルスと共同作業しているおかげで人間は、独力ではとても達成不可能な速さで複雑な生き物に進化してきたのだろう。

 ジャンピング遺伝子はおそらくもとウイルスだった。
 複雑な生き物ほどジャンピング遺伝子を多くもっていることがわかってきた。
 人類のゲノムは、ある特定のレトロウイルスによって、別のレトロウイルスに感染しやすいように変えられた。
 ウイルス研究所所長のルイス・ヴィラリアルは、アフリカの霊長類に「別のウイルスに延々と感染する」能力がついたことで、人類は進化の「早送りボタン」を手にいれたのだと言う。
 他のレトロウイルスにさらされることで、高速変異を可能にする機能だ。
 この能力のおかげで、サルから人間へと一気に進化することができた、と言うのだ。
 進化とは「知性ある設計者:インテリジェント・デザイナー」ではなく、「感染性のある設計者:インフェクシャス・デザイナー」が創造しているのだろうか?








 【習文:目次】 



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