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● 2007/09
『
打つ手のない状況に陥ったとき、打つ手は2つ残っている。
ひとつはあきらめること、
もうひとつはあきらめないこと、だ。
今では、やたら「あきらめるな!」と叫ばれることが多いが、古来、日本人は「いさぎよし」として、あきらめの中に美学を感じとり、あきらめようとしない人間を「あきらめの悪いヤツ」として軽蔑していた(と聞いた)。
わたし自身、これまで「あきらめの境地」を目指し、多くをあきらめてきた。
大ピアニストになる、
詩人になる、
日記をつける、
妻の性格を変える、
豪邸に住む、
など、あきらめたことは数えきれない。
しかし残念ながら、あきらめ切れないことも多い。
大富豪になる、
天使のような女と出会う、
一人静かに暮らす、
など、あきらめ切れないでいる。
あまりにもあきらめが悪いので、今ではあきらめの境地に到達することをあきらめている。
「あきらめる方法」はいくつかあるが、そのうちの一つは「どうせの方法」である。
われわれはよく、「どうせ---だから」という論法を使ってあきらめている。
「物事とは最終的にはロクなことにならない、だからあがいたりするのは無意味だ」
という論法だ。
これにもいろいろな用法がある。
たとえば、
「どうせダイエットしても挫折するんだから、食べてしまおう」
「どうせ合格できないんだから、勉強しても無駄だ」
「どうせだれもかまってくれないんだから、不良になってやる」
と、自信をもってあきらめている。
だが、そこまであきらめがついているなら、そもそもダイエットなどの目標を立てることをあきらめればよさそうなものだ。
その点、いまいち説得力に欠ける。
説得力があるのはたとえば、余命一年と宣告された人が、
「どうせ1年しか生きられないんだ、だから金を貯めても無駄だ」
と思って、いつもの並寿司を上寿司に変えるような場合である。
ただし、これを拡張して、
「どうせあと50年も生きられないんだ、節約するのは無意味だ」
と考えて豪遊すると取り返しのつかない結果になるおそれがある。
また、仮定法を使って、
「どうせ明日交通事故で死ぬかもしれないんだから、今日のうちにお金を使いきってしまおう」
と考えるのも危ない。
この「どうせの方法」が不幸を招くこともある。
まわりの中年夫婦を観察すれば、
「結婚してもどうせこの夫婦のように悲惨な結果になるだけだ」
と、悟るはずである。
にもかかわらず愚かにも、
「どうせ悲惨な結果に終わるなら、いまだけでも幸せになろう」
と考えて結婚し、数十年後、「どうせおれは一生不遇だ」と無理にあきらめをつけつつ老後を過ごす者が後を絶たないのだ。
人はもっと上手に「あきらめる技術」を身につけるべきだ。
今、妻が、
「いい加減、そこにある本を片付けてよ!」
と叫んだ。
つい先日、
「どうせいくら言っても片付けないんだから」
と言ったばかりではないか。
あきらめの悪い女だ。
』
【習文:目次】
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