2012年3月24日土曜日

★ 『バベルの謎 ヤハウイストの冒険』:長谷川三千子

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● 1997/04[1996/02]






 もし、この本にいささかなりとユニークなところがあるとすれば、それは「創世記」原初史というものを徹底して

「ひとつの作品」として読もう

としている、ということであろう。


 これは伝統的な、ヨダヤ教信者、キリスト教信者の読み方と異なっているばかりでなく、現代の旧約学の主流をなす読み方ともまた異なっている。

 ちょうど、中世の聖書解釈者たちが「モーセ五書」をモーセの書いたもの---預言者であるモーセが神の言葉を預かってそのまま書きしるしたもの---と考えることによって、「作者」という問題を避けて通ったのとおなじようにして、現代の聖書解釈者たちは、「モーセ五書」の記述を、いたるところで「伝承」へと還元することによって、「作者」の問題を避けて通ろうとしている。

 およそこの世界の出来事全般を、「民衆」の歴史と称して、いかなる英雄も偉人も存在しないもののごとく扱おうとするのは、現代の歴史学者の悪弊の一つであるが、聖書解釈者たちもまた、その悪弊に染まろうとしている。

 ひとことで言えば、昔も今も、人々は「精神」というあり方から逃げ出そうとし続けてきたのである。


 私がこの「創世記」原初史のうちに見出したのは、一つ「精神」の軌跡であった。

それは、

 地と天を創り上げた神に、一対一で対等に面とむかうことのできる「精神」であり、神の悩みを自らの悩みとして悩むことのできた「精神」である。

 彼は、神を擬人化したのではなく、自らが神と同じ場所に立つことによった、神と同輩として理解することができたのである。

 そのような精神のあり方は、禅宗の思想にふれたことのある者にとっては、少しも珍奇なものではない。

 しかし、彼がのちに確立した、ユダヤ教やキリスト教教義にとっては、彼のような精神のあり方は、まったく「異端」と目されるべきものである。

 まさに、それらの宗教の発端を作り上げたその精神を、それらの宗教は覆い隠し、埋め去り、忘れ去ってきたのである。



 そのようにして覆い隠し、忘れ去ることによって、それらの宗教は、かの「精神」の直面した問題を、自ら直視するかわりに、まさに無意識に「強迫観念:オプセッション」として抱え込むことになったのである。

 ここで私のしようとしていることは、ちょうど精神分析医の仕事とよく似通っている。

 すなわち、患者が或る問題を自ら直視しようとせず、覆い隠し忘れ去ることによって、かえってそれに縛られているとき、彼に正しくその問題を直視させ、直面させることで治療を行うのが精神分析医だとすれば、それと同じことを私もしようとしているのである。


 これを読む大多数の日本の読者にとっては、そのような「
強迫観念:オプセッション」はただ他人の病であり、まったく他人事としか感じられないことであろう。

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 さしあたっては、この大胆きわまりない一個の精神の展開の軌跡を、一つの冒険小説、あるいは一つのミステリーとして楽しんでいただければ幸いである。











☆ バベルの謎:まへがき

  : 旧約聖書、約束の土地と選民思想
  : 「モーセ五書」の成立
  : 「バベルの塔」の作者、ヤハウィスト
  : 「創世記」、原罪とはなにか




 【習文:目次】 



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