2012年3月24日土曜日

:「モーセ五書」の成立

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● 1997/04[1996/02]



 「バベルの塔」の物語は「原初史」 の内にあり、その原初史は「律法」の中でも、重要かつ特別な一を占めるものである。
 そもそも「律法(トーラー)」なる書物がどのようにして書かれ、どのようにして出来上がっているのか。
 これは現在のわれわれが本を書くのとは、まるで違った仕方で作り上げられたものだ。

 現在分かっているところによれば、或る時代に、それまでヘブライの諸部族のあいだに、口伝えの伝承として伝わっていた種々の歴史的事件や物語が、文字によって書きとめられ、文書として出来上がる。
 さらにそれがまとめられ、編纂されて最終的にいま見る「律法」「預言者」「諸書」という形に整えられたのであろうという。
 したがって、そこには多くの作者たちがおり、またそれを切りはぎしていった編纂者がいた、ということになる。
 彼らが、どの部分をどう書き、またそれをどう切りはぎしたのか、ということをしるために、ここ二百年ばかりの間に積み重ねられてきた、いわゆる「旧約学」なるものの研究成果をふりかえってみる。
 実際、「タナハ」としてであれ、「旧約聖書」としてであれ、その成り立ちの詳細が明らかにされるようになったのは、この書物自体の年齢と比べると、ごく最近のことなのである。

 ほぼ二千年近くものあいだ、「律法」、すなわち「モーセ五書」は、モーセ本人の筆になるものである、ということになっていた。
 これは、ユダヤ教においても、キリスト教においても、疑ってはならぬ公式見解としてまかり通っていた。

 それでは、五書はいったい何者が、いかにしてかいたものなのか?
 そのことについての積極的な見解が登場するのは、18世紀になってのことである。
 注目されたのは、五書の中に、同じ一つの物語が異なった語り方で繰り返されれていることがあるという現象(「タブレット」と呼ばれる)であった。
 その場合、片方では神が「神(エローヒーム)」とのみ呼ばれているのに、もう片方では「ヤハウエ」(または「ヤハウエ・エローヒーム」)と呼ばれている。
 さらに、他の用語や文体も異なっている。
 これは明らかに、異なる作者によって書かれたものであることを示しているのではないか-----このような推理が、現代の「旧約学」につながる第一歩となったのである。
 
 公式に認められたのは、1780年に発表された、ドイツの学者ヨハン・ゴトフリート・アイヒホルンの説である。
 アイヒホルンは、
①.神を「エローヒーム」と呼んでいる文書を「文書E」と名づけ
②.神を「ヤハウエ」と呼んでいる文書を「文書J」と名づける。
 これが基本的には、現在「文書資料」と呼ばれているものの区別の出発点となった。

 その後いくつかの資料が新たに区別されて、現在では、「律法」の五書は、次の4つの文書資料からなっているとされている。
①.「J資料(ヤハウイス資料)」
  アイヒホルンが「J」と名づけた資料はいまでも「J資料(ヤハウイス資料)」と呼ばれている。
  紀元前900年、あるいはそれ以前に、「南王国ユダ」で成立したと考えられている。

 アイヒホルンが「E」と名づけた資料は、現在では「E資料」と「P資料」とに区別されている。
②.「E資料(エロヒスト資料)」
  「E資料」はJ資料のほぼ1世紀後に「北イスラエル王国」で成立したものと思われる。
③.「P資料」
  P資料は「祭司文書(Proestly Code)」とも呼ばれ、バビロニア捕囚の直前に、おそらくは祭司の職にある者によって書かれたものとされている。

 最後の「申命記」のみは、これらとは全く別の書き手によるものであることがわかっている。
④.「D資料」
  この資料は「申命記」のギリシャ語訳「デウテロノミオン」の頭文字をとって「D資料」と呼ばれる。
  これは紀元前622年頃、「南王国ユダ」の神殿から「発見」されたと言われているのであるが、実際にはその時に執筆されたものらしいと言う。

 これら4種の文書資料が、(D資料をのぞいて)パッチワークのように切りはぎされて出来上がっているのが「律法」なのである。
 したがって、そのパッチワークの実態---どこからどこまでが、どの資料によるものなのかということに関する正確な情報---を知らずに、やみくもに「作者の意図」を探ぐろうとしても、まったくの見当はずれに陥ることになる。
 なかでも注意すべきは、その複雑な切りはぎが、一つの物語の内部まで及んだ結果、物語の記述に矛盾が生じてしまうことがある、ということである。

 たとえば、その典型的な例が、「創世記」のなかの「大洪水の物語」である。
 そこでは、第7章12節に、「雨は四十日四十夜のあいだ地上に降り続いた」とあり、その後、水が引き始めたことになっているのに、第7章24節では「水は150日間にわたって地上にみなぎり続けた」とあり、地上が完全に乾くまでにほぼ一年かかったことになっている。
 この明らかな数字の矛盾は、編纂者が、この一つの物語のうちに、J資料の記述とP資料の記述とを混ぜいれたことから起こった矛盾、と説明されている。
 すなわち、J資料の作者は、雨が40日間降り続いたと記述し、P資料の作者は水が150日間みなぎり続けたと記述している。
 それをそのまま繋ぎ合わせてしまったために、このような食い違いが生じたのである。








 【習文:目次】 



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