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● 2009/12/10
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まえがき
はっきり言おう。
本書はだれにでもおすすめできる本ではない。
本書に登場した人、とくにその中でも怒りやすい人は。読まない方がお互い楽しい人生をを送ることができると信じる。
本書をとくにおすすめしたいのは次のような人だ。
1.読解力がない人
文字は読めなければ読めないほどいい。
本のどちらが上かも分からなければ最高だ。
本書はそういう人のためにある。
なんとか読めても、本書の内容を理解出来ないような人にも、おすすめである。
どんなに読解力がなくても本書を買うことはできる(人間は読書よりも先に買い物の能力が発達する)。
そういう人が本書を買って、しかも読まない、これほどの贅沢があるだろうか。
読んで失望する心配のない人、それが読解力のない人だ。
本書はそういう人を決して失望させることはないと断言する。
2.文学的造詣の深い人
名文を読み慣れている人が本書を読めば、「こんなものでも文章といえるのか」という疑問を抱くはずだ。
文章と呼ぶにははばかられるような文章が数カ所だけならまだしも、一冊まるまる書き連ねてあるのだ。
文章とは何か、文学的価値とは何か、という根本的問題をつきつけられることになる。
場合によっては文章の概念の書き換えを迫る可能性まで秘めている。
世の中、何が起こるかわからない。
奇跡が起きればなんだって可能なのだ。
3.アラ探しばかりする人
本にかぎらず、他人の欠点やミスを見つけて喜ぶという、ゆがんだ性格の持ち主がいるが、本書はその人たちのためにあると言っても過言ではない。
目を皿のようにしてアラ探しをしなくても、簡単にアラが見つかるからだ。
一ページに最低でも3カ所はアラがあるから、どのページもそういう人の期待を裏切ることはない。
これほどアラが多く、突込みどころ満載の本はないと自負している。
私自身、アラ探しするタイプだから自信をもって言えるが、本書はそういう人を絶対に失望させることはない。
4.軽率な人
人類の90パーセントは軽率な人だ。
軽率な人の失敗は枚挙にいとまがない。
それでも失敗を繰り返すのは、十分は反省もなく、ロクに考えもしないで行動するからだ。
なぜ本書がこのタイプの人に向いているかというと、「おすすめだ」と書けば、買ってみようと軽率に思い込んでくれるからだ。
軽率でないと、そもそも本書を買うということが難しい。
軽率な人は少なくとも本書を買う可能性を秘めている。
軽率な人は過去に失敗をなんども重ねてきているから、本書を買って失敗したと思っても、簡単にあきらめがつく。
5.考えすぎる人
考えすぎる人は、過去の失敗に懲りて、慎重に考えるようになった人である。
だが、慎重に考えているうちに判断が二転三転し、結果的に誤ってしまう。
こういう人は、基本的に考えが足りない人と同じである。
こういう人には本書がおすすめだ。
本書を買えば、考えすぎると失敗におわるということを自覚するいい機会になる。
もちろんどんなに自覚しても考えすぎる癖は治らないだろうが、人間は一生努力を続けることが大事なのだ。
6.損得にこだわらない人
本書を買っても決して得にはならない。
役に立つわけでもなく、知恵がつくわけでもない。
それでも買うことができるとしたら、損得にこだわらない人か、判断のできない人か、どちらかだ。
どちらにしても、結果となる行動は同じである。
けっかさえ同じなら原因は気にしなくていい。
もし本書を買って損をしたしたと思うようなら、まだ自分は損得にこだわる人間だったと反省し、より太っ腹な人間を目指すことが期待できる。
7.損得にこだわる人
このタイプの人は、損得にこだわるあまり、結果的に損をしてしまう。
このタイプの人は、何度損をしても、損に慣れることはない。
損をするたびに悔しい思いを抱き、損を取り返してやろうと、今度こそ儲けてやろうとチャレンジを繰り返し、そのたびに傷を広げている。
本書を買って悔しい思いをすれば、損を取り返そうとするチャレンジ精神が活性化し、活力が湧き出てくるにちがいない。
たとえさらに損をすることになっても、チャレンジ精神を持ち続けることが尊いではないか。
もしチャレンジ精神が衰えてきたら、品書をもう一冊買うことをおすすめする。
本書は「週刊文春」連載のコラム「ツチヤの口車」を集めたものだ。
このコラムは「週刊文春」の中で、「刺身のつま」「箸休め」といった重要な一を占めている。
メインデイッシュとなる本を読みながら、ときどき本書を読むのが一番いい読み方である。
メインデイッシュとなる本を選ぶなら、私の本をおすすめする。
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『
このたび『妻と罰』が刊行された。
これを機に、格差社会の問題を考えてみたい。
ちなみに、『妻と罰』は、本欄「ツチヤの口車」の中から自信のない原稿を集めたものである(自信のある原稿がないのだ)。
おそらく、『妻と罰』という書名はどうせドフトエフスキーの、『罪と罰』をもじっているだけで、内容は似ても似つかないに決まっていると思う人もいるだろうが、それは誤解である。
どちらの本も、「この世は不条理だ」という世界観を貴重としているという重要な点で共通しているのだ。
『妻と罰』は、妻が罰を加えるのか、それとも妻に罰が加えられるのかという点だ。
『罪と罰』は<罪に対して罰が加えられる>という意味だから、それに対応させれば、『妻と罰』は<妻に対して罰が加えられる>という意味になるはずだ。
だが出来た本を見ると、表紙にはわたしが色々な仕方で罰せられている姿が描かれている。
そういえば、出版社が提案する書名は以前から、『ツチヤの貧格』など、わたしの品格を落とすようなものばかりだった。
罰せられるのはわたしに決まっていると速断したのだ。
わたしが嘆いていると、学生が説明した。
「『罪と罰』の場合は、正確に言うと、<罪に罰が下る>のではなく、<罪を犯した人に罰が下る>という関係になっています。
だから、<妻と罰>も、<妻をもらった人に罰が下る>となるはずです’
とうてい納得できる説明ではない。
男の中には
「妻をもらったこと自体、罪なのに、妻をもらったという理由で罰を受けるのは不当だ。
罰を受けたために罰を受けるようなものだ」
と、憤慨する者もいるに違いない(わたしではない)。
だがどちらが罰する側になるかは大した問題ではない。
問題は格差社会だ。
家庭というものは、最も小さく、かつ最も過酷な社会である。
その中で罰する・罰せられるという関係が生じ、しかも再チャレンジの機会もセーフテイネットもない。
最初は平等な立場から出発するのに、なぜ男女の間で勝ち組と負け組ができてしまうのか。
格差社会の解明のために、わたしの事例を考察してみよう。
わたしが結婚して間もないころ、妻とキャラメルを食べながらテレビを見ていた。
粘着力の強いキャラメルだということが分かったので、わたしは妻に「用心しないと歯の詰め物がとれるぞ」と注意した。
妻もわたしも虫歯が多いのだ。
数分後、妻が「あっ」と叫んだ。
詰め物がとれたのだ。
この瞬間だ、わたしの優位が確立したのは。
わたしは優位を確実にするために、妻の頭の隅々まで深く浸透するように、
「だから注意しなきゃ詰め物がとれると言っただろう」
と、繰り返しさとした。
このときが、妻との関係におけるわたしの絶頂期だった。
まだ優劣上下が決まっていない時期だけに、この出来事は決定的な意味を持つ。
このちょっとした出来事が勝ち組・負け組を決めたのだ。
私の優位がゆらいだのは、
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この日を境に、妻がわたしを見る目から尊敬の色が消えた。
こうなったらもはや挽回は不可能だ.
キャラメル一個で勝ち組・負け組が確定し、終生逆転不可能となったのだ。
多くの家庭で同様のことが起こっていると思うが、くれぐれもキャラメルは食べないことだ。
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【習文:目次】
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