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● 2011/08/16[2011/07/29]
官僚の責任:古賀茂明著
『
まえがき
政治家たちがどうしようもないのは事実である。
その無能、無責任ぶりには腹が立ってしかたがないという国民が大多数だと思う。
しかしその裏には、政治家同様、この非常事態に際して自らの責任を放棄して恥じない人間たちがいる。
それどころか、自分たちの利権維持のために汲々として懲りない人間たちがいる。
そう、霞が関の住人である官僚たちである。
これだけの国難(東日本大震災)にあってもなお、無意識のうちに省益のことを考え、みずからの利権確保に奔走する彼らの姿は、政治家と違って国民の目に直接ふれることが少ないだけに余計タチが悪い。
官僚の思考がそのような回路を辿るのは、もはや彼らの習性と言うしかない。
何か物事を進めるときには自動的に自分たちの利益を最優先するように、いわばプログラミングされているのである。
「官僚=優秀」----そういうイメージを一般の方々は抱いているかもしれない。
が、だとすれば、いまこの国を覆っている重苦しさはどういうことなのか。
ほんとうに官僚が優秀であるならば、どうしてこの国は、国民の多くが将来に対して明るい希望を持ちにくくなってしまったのか。
つまり、官僚はけっして優秀ではないし、必ずしも国民のことなど考えて仕事をしていないのだ。
たとえ官僚になるまでは優秀だったとしても、いつの間にか「国民のために働く」という本分を忘れ、省益の追求にうつつを抜かす典型的な「役人」に堕していく。
それが「霞が関村」の実態なのである。
』
『
おわりに
日本のみならず、世界的にも大きなショックを与えた東日本大震災から、かなりの時間が経過した。
被災地の人々をはじめ、日本国民は何とか復興へと踏み出しつつあるが、肝心の政府からは、復興策のの内容と道筋についての明確なメッセージは示されないままだ。
<<略>>
こうして見てくると、
民主党政権は既得権グループと闘おうとしていない
ことがわかる。
農業(農協)保護、中小企業(団体)保護の姿勢は自民党と基本的には同じ。
本書では取り上げなかったが、医師会擁護も同じだ。
民主党や自民党のような「バラマキの成長戦略」としてではなく、おもに
制度改革を促す新たな「闘う成長戦略」
を実行しなければならない。
そして公務員改革を断行して、官僚が真の政治家を全力で支える。
それが理想だ。
現実には、それがかない可能性はかなり低い。
日本の財政破綻は「想定外」に早く到来する可能性が高くなっているといっても過言ではない。
一刻も早い公務員制度改革が必要なのだ。
日本が将来に向けて行わなければならないさまざまな改革を、効果的に進める大前提となるのが公務員改革だからである。
役所に限ったことではないのだが、あるものを別の方向へ変えようとすると、必ずそれを押し戻そうとする力が働く。
したがって、まったく白紙から線を引き直すしかないのだ。
役人にそれをするだけのインセンテイブはない。
つまり、官僚には自浄能力は期待できないのだ。
変えられるのは、やはり政治家だ。
自民党は、かっての自民党体質を拭えない長老に支配されている。
かれらに変革を求めるのは無理だ。
なぜなら、彼らは官僚に育てられたと言ってもいいからだ。
自民党の政治家と官僚はもちつもたれつの関係なのだ。
その点、民主党にはそういった縛りがないぶん、官僚に妙な気を使う必要はなかった。
改革を断行できる土壌はあった。
だが、すでに述べたような理由で挫折。
結果、むしろ官僚支配が強まってしまった。
とはいえ、
「変えよう、かえなければいけない」
というメンタリテイは、まだ失われていない。
政権についてかなりの時間が経過したことで、官僚との付き合い方や使い方をそれなりに学び、身につけてきている。
そうなると残された選択肢は一つ。
改革への意志をもった民主党の政治家を中心に、志を同じくする自民党の若手がごうりゅうすることだ。
民主と自民の大連立など本気で願っているような古いタイプ
----民主党ならオザワグループのような人たちや、現政権内部にもいる改革派ぶった権力亡者たち、自民党なら「来た道に戻りたい」グループの長老たち-----
の政治家にはお引き取り願ったうえで、____
<<略>>
そういうダイナミックな動きが起き、その代表者が真の意味での「政治主導」、いや、総理が直接、各省庁、各大臣に支持できる「総理主導」の仕組みを実現しない限り、改革はどこまでいっても難しいのではないかと思う。
政治家たちを動かすのは何か。
国民の強い意志---やはりこれしかない。
誤解を恐れず言いたい。
今回の東日本大震災は、よりよい明日を築くための契機となりうる。
なにがなんでも絶対にそうしなければいけない。
日本にはポテンシャルがある。
けっしてヤル気がないわけではない。
あとは、行動に移すだけなのだ。
2011年6月 古賀茂明
』
『
あとがきを書き終えたあとで
本書校了の3日前、すなわち2011年6月24日。
私は経産省の松永和夫事務次官から正式に退職勧奨の通告を受けた。
どういうわけか、人事権者であり海江田万里経済産業大臣とは結局、一度も会わせてもらえなかった。
これまで一年半以上、次のポストを探すから待っていろ、と言われ続けてきた。
退職期日は7月15日。
猶予は3週間足らず。
先方による一方的な通告だった。
当日は、私が大腸ガンの手術を受けから5年目の一連の定期検査の一つが行われる日である。
状況がこのまま推移すれば、役人生活最後の日は、残念ながら休暇で終了となる。
かりにそうなれば、7月16日からは晴れて自由の身だ。
ただし、その裏側には仕事がないという現実もつきまとう。
しかし、怖いものは何もない。
役所にいようがいまいが、日本人であることには変わりない。
いままでどおり、次代を担う若者たちが活躍できる舞台を整えるべく、どこにいても力を尽くしていきたいと思う。
』
(私見:
「残された選択肢はひとつしかない」というのは、そうだろうかと思う。
それはいまの体制での残された選択肢に過ぎない。
今、日本は変化している。
「変革ではない」、変化しているのである。
「イワシ」の話ではないが、数十年周期でやってくるレジーム・シフトの過程に入ってきている、といった方がわかりやすいかもしれない。
明らかに変化の過程に入っている。
人が意志的に変革をするのではなく、既存の体制自体が崩れる過程に入ってきている。
例えば、大阪維新の会の出現などその典型であろう。
これ一見、個人的なハシズムのように見えるが、実際は生態的変化であり、それに橋下氏がうまく乗っているにすぎない。
おそらく今後、既成のスタイルにはみあたらないような形で、
第二波、第三波と生態的な変化
が押し寄せてくるだろう。
そこでは、日本を作っている既存の憲法などというものを易々と乗り越えてしまっている。
それは憲法改正論議といったものではなく、体制の変化なのである。
体制の生態的変化なら、もはや憲法改正などというのは二次的なもの、つまり
「オマケの手続き」に過ぎなくなってくる
のである。
大阪都などという構想は既存の思考の中からは絶対に生まれないものである。
今、そういった強いていえば
魑魅魍魎とおもわれそうなもの
が徘徊しはじめている。
これからもっともっとすごいものが現れるだろう。
日本は変化している。
何かの力に突き動かされて、変化しようとしている。
それは人間の恣意的変革ではない何モノかである。
日本はそういう時代過程に入りつつある。
おそらく平成20年代を最後に自民党、小沢グループ、石原老人、亀井老人、平沼老人といったところは賞味期限切れで消えていくだろう。
30年代に姿を残こしているのは民主党の若手、大阪維新の会、そして新しく台頭してくるであろう魑魅魍魎妖怪変化グループといったところだろう。
数十年まえにレジームシフトがおこり、日本は人口増加という時代動向に乗せられた。
それが経済を押し上げるという形で動いた。
新たなレジームシフトは人口減少という生態変化の時代に入った。
まさに「イワシはどこへ消えたのか」ならぬ、
「日本人はどこへ消えたのか」
がおころうとしている。
今世紀半ばの人口は1億人前後になると見込まれている。
ということはこれから向こう40年にわたって日本からは毎年70万人の人が消えていく。
70万人とはどれほどの数か。
静岡市が71万人、世田谷区についで2番目に人口の多い練馬区も同じく71万人。
大雑把にいうと、毎年静岡市あるいは練馬区が日本から一づつ消えていくことになる。
それが少なくとも40年、おそらくは60年続くだろうと予想されている。
推定では8,500万人くらいになるまで、日本人は消え続けるだろうという。
もちろん永遠に減り続けることはない。
無限に増え続けることがなかったように。
はるかな先の話だが、そこでまた新たなレジームシフトが起こることになるだろう、と思われる。
この生態的な問題がすべての今後の日本の在り方の基本になる。
「人が減り続ける」という動かしがたい現実が目の前ある。
こういう動きのなかでどういう形をとっていくのがもっとも適当かということである。
この展望の下で、明日の日本を作っていくことになる。
レジームシフト、すなわち生態的変化が目に見える形で現れているのである。
これに解答する形でしか、政治改革あるいは官僚改革は答えられないはずである。
「闘う成長戦略」などという言葉遊びは空虚だ、
ということである。
【習文:目次】
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