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● 1997/04[1996/02]
『
P資料の作者が誰であったか、ということは、ヤハウィストが誰であったかということと同様、判然としない。
「創世記」の原初史におけるJ資料とP資料のダブレット(同じ1つの主題について複数の作者が異なった話の筋、異なった表現で記述を行っているという現象)をみるかぎり、P資料の作者が、J資料の作者の作品に何らかの不満を抱き、それを自分なりに「改作」していることは明らかである。
ヤハウィストの原初史の第一幕は、もしこれを、
「神の世界づくりの物語」
として眺めるならば、まことに行き当たりばったりのいい加減な「世界づくり」の様であるといわねばならない。
「
ヤハウエ神が地と天を作ったとき、
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ヤハウエ神は土からとった塵で人を形づくり、彼の鼻に命の息を吹き入れた。
すると人は生き物となった。
」
このヤハウエ神は、まだ何一つお膳立ての整わぬうちに、いきなり人間を存へてしまう。
それを「エデンの園」の内に置いたのはよいが、この一人ぽっちの人間はいささか手持ち無沙汰で淋しそうである。
そこでヤハウエはあわてて、人のためにペット・動物を存へてやる。
ところが、それでも人間は不満そうである。
それではといって、人間が眠っている間に肋骨を一本とって、それで女を存へてやるのであるが、この女の存へ方なども、まさに泥縄式の見本ともいうべきところである。。
P資料作者が、こうした無計画な行き当たりばったりに顰蹙したであろうことは間違いない。
彼はあくまで整然と順を追って組織だった「神の世界創造」を描き出す。
まず、天を創り、地を創り、その地から植物を生え出させたうえで、天と地に住む動物たちを、これまた順番に手際よく創っていく。
そして、そのしめくくりに人間たちを作るときも、最初からちゃんと「男性と女性を創造」し、
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」
と命じる。
しかも念のいったことに、それらの「創造行程」の一区切りごとに、P資料の神はいちいち品質チェックをするのである。
「神がご覧になると、それはよかった」
まるで、品質管理システム(QC)の完備した工場での生産さながらである。
彼はおそらく、ヤハウィストの物語を繰り返しして読むほどに、不満のつのるのを憶えたことであろう。
彼はただちに、ヤハウィストの物語のどこがいけないかに気づく。
それは、ヤハウエが人をつくるのに、
土から材料をとってきた
ということ。
ここにすべての禍のもとがあったのだ、と彼は気づくのである。
材料などというものを介入させたからこそ、ヤハウエの存えた世界はやがてふたたび、材料の提供者である「地」からの取立てを受けることになるのだ。
この物語は、なんとしても書き直さねばならぬ。
「地(土)」などという余計物を排し、徹底した神のみによる世界づくりを描こう。
材料などというものを一切使わない「無からの天地創造」を描こう、これこそが、彼をあの「創世記」第1章の執筆へと駆り立てた決意であったに違いない。
P資料の作者は、彼自身の「天地創造の物語」をこう語りはじめる。
「
初めに神は、天と地を創造した。
」
作者は、この冒頭の一文を、この書全体を代表させるにふさわしいものとして、考え抜き練り上げて存へている。
作者はほとんど結論のような形でこの一文を発しているのであって、事実、この言葉を書いたときの彼の脳裏には、すでに第2章4節の締めくくりの文章がくっきりと浮かんでいたにちがいない。
「
これらが天と地の創造されたときの由来である。
」
P資料作者による「神の世界作り」 の物語を通じて、
「材料を用いることのない創造」
という考え方は、一つの理念としてその全体を貫いているといってよい。
それは後の世のキリスト教神学者たちの呼んだ通りの
「無からの創造(creatio ex nihilio)」
なのである。
「無から」の世界成立を語っている神話は、それ自体、決して珍しいものではない。
それでは、創世記第1章の「神の創造」のユニークな点はどこにあるのかと言えば、それが「無から」の創造を語っているのと同時に、それを
「神という創造者の行為」
(註:神の仕業にミスはないという前提が置かれてしまう)
として描きだしている、というところにある。
原初の状態が「無」であったと語られ、それから創造者が登場して世界を創り始めるという筋をもった創世神話もあるが、そのような神話でも、創造者が登場するとたん、話はにわかに具体的、即物的となり、結局のところ創造者の世界づくりそのものは、はっきりと材料のある「製作行為」として描かれることになる。
「無から」、しかもなんらかの創造者による行為として世界創造が語られるということは、極めて異例のことである。
この異例であること、ユニークであることは、実は言い換えれば、この「無からの創造」という神学概念のうちにひそむ難関(アポリア)の現れなのである。
いったいなぜ「創造者による無からの創造」という形をもった創世神話がそれほど「異例」なのか?
理由は簡単なことである。
それ自体がすでに一つの論理的矛盾だからである。
「創造者が居る」ということは、すでにいかなる意味においても、「無の状態」ではないということである。
「創造者による無からの創造」
という神話がユニークだということは、言いかえれば、それは論理的矛盾であり、
「ナンセンスである」
ということなのである。
問題をさらに複雑にしたのは、このP資料作者よりもさらに後の編纂者が、P資料の
「世界創造物語」を、ヤハウィストの原初史の前に
据えてしまった、ことである。
(註: 第1章 P資料による天地創造
第2章 ヤハウィストによる神の地と天の作造
第3章 ヤハウィストによるエデンの園
第4章 ヤハウィストによるカインの物語
第5章 P資料によるアダムの系譜 )
元来、ヤハウィストの原初史そのものの構想からすれば、その出発点である「神の世界づくり」は、すなわち「神の没落」の第一歩たるべきものであって、それが完璧なる
「不良品率ゼロの世界創造」
である必要はまったくないのである。
そんな世界創造であっては、その後の話がつながらないのである。
彼の原初史の出発点は神の完璧なる世界創造であってはならない、とさえいえるのである。
が、一方P資料作者は、徹底した「不良品率ゼロの世界創造」を目指す。
そもそも、「無からの創造」という理念を考えだしたのも、「材料」などというものを持ち込むことによって、そこに「不純物」が紛れ込み、神の創造の完璧さが失われるようなことがあってはならない、という発想なのであった。
それぞれの一日ごとの創造のたびに、神がそれを見て、それが良かったと語られているのであるが、念には念を入れるという]形で、すべてが創造されたあとで、もう一度最終チェックが行われるのである。
「神は彼が作られたすべてのものをご覧になった。
すると、見よ、それは非常に良かった。」
これほど完璧な品質管理のゆきとどいた世界創造物語を冒頭に置いてしまったら、その後の展開はいったいありえるのか?
少なくとも、これに引き続いてヤハウィストの
「神の没落のドラマ」
を語ろうというのは、ほとんど不可能なことである。
全知全能のの神が、これだけ注意深く創造した完璧世界から、
どうして悲惨に満ちた世界が出現しうるのか、
解決不可能な謎となってしまう。
その落差を埋めようとするならば、どこかで、
「人間自身の責任」
によって、「非常に良かった」状態からの堕落が起こった、とするしかない。
それを神の責任とすれば、
「神の作り損ない」
という問題が生じてしまう。
それをサターンの仕業とすれば、サターンに神をもしのぐ強大な力を認めてしまい、事実上の
「二神論」
となってしまう。
そこで、そのような形で要請される「人間の堕罪」をおそろしく重大なものにせざるを得なくなる。
つまり、ある意味で神(とサターン)の肩代わりを担って、
この世の悪一般を引き受ける
ような形で、
「人間は罪に落ちる」、
という役目を負うことになる。
伝統的なキリスト教教義の立場はまさにこの要請にあわせて、創世記第2章、第3章の
解釈をつくってきた
のである。
それが
人の「原罪」
という概念として固定化し、キリスト教教義におけるもっとも重要な神学概念の一つとすらなってしまったのである。
もしも原初史を、そのあるがままの姿で、すなわち、本来の原初史であるヤハウィストの作品と、それに対抗して書かれたP資料との対立の形のままで読むならば、こうした伝統的な宗教教義は足元から崩れ去ることになる。
それは、信者にとっては耐え難いことであろう。
しかし、敢えて断固そのようにして読むときには、「教義」に縛られて読む者には目に入ってこなかったもの、すなわち、ある一つの精神の格闘というものが見えてくるであろう。
私がここで原初史のうちに見ようとしているのは、まさにそれなのである。
私はユダヤ教に興味があるのでもなければ、キリスト教に興味があるのでもない。
私が興味をもつのは、この
「ヤハウィストという一個の稀有の精神の軌跡」
なのである。
』
【習文:目次】
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