_
● 2009/12/18[1998/8/10]
『
解体新書を出版するにあたっての序文
紅毛訳官(オランダ通詞)
オランダの国の技術はひじょうにすぐれている。
人間の精神力と知識・技巧の限りを尽くして為しとげたその技術は、古今東西を通じてその右に出るものはまったくないのである。
したがって上は天文学、医術から、下は器械、衣服に至るまでオランダの技術があまりにも精妙巧緻なものであるために、それを観ることで眼のまえがぱっと開け、まったく思いがけない思いをしない人はいないのである。
そのためであろうか、オランダは自国の珍しい品物を船に積み、世界各国と貿易している。
日月の照らす所、霜露の落ちるところで行かない所はまったくない。
このことは世界広しといっても珍しいことでないであろうか。
わが将軍がオランダ人の入国を許してから今まで数百年になる。
彼らが来日して商売するようになると、幕府は長崎に邸を作り、オランダ人を住まわせ、彼らのために通訳を置き、互いに言葉を交わし、意志を伝え、欲求するところを満足させ、利益をあげている。
毎年3月には江戸に行き、将軍に拝謁し、産物を献上しているのである。
そこで日本の通訳についてオランダの天文学や医学を学ぶ者は以前から少なくなかっった。
しかし、オランダ人のもたらす書物と文章は、われわれには耳慣れないものであるため、明確に解釈することは容易なことではないのである。
時には名声を求め、自分は蘭書を学びたいという者がいる。
そして、一、二の通訳の門を叩き、入門するが、その結末は無駄なものとなって、さまよい歩き、その修業の半ばにも行かないでやめる者も以前から少なくない。
また、時には通訳について通訳の術を学ぶ場合に、長く習って通訳の術を習熟したとしても、いざ書物と文章に臨むとまったく目がくらんで読めずに素通りしてしまうことも以前から少なくなかった。
自分[吉雄耕牛]は通訳の家に生まれて、祖父の業を継ぎ、子供のときから通訳の術を習い、いつもそれを身近に使い、その奥義を極めるばかりになっている。
しかし、オランダの学問の奥底や、その進歩してくわしくなる点については、私の場合でも容易に極めることができないのである。
以前、中津の医官前野良沢という人物が自分を長崎に尋ねた。
自分は良沢は豪傑で、立派は人物と見た。
彼はオランダ語を非常に勤勉に学び、一日中倦むことなく勉強をしていた。
自分は彼が学問に情熱的であることをたいへん好ましく思い、自分の薀蓄を傾けて伝授した。
以来、この出藍の器は尋常な人物ではなくなった。
自分のもとを去って東都[江戸]に戻ってから、一、二の同好の士とますます勉学を深めたが、それはとどまるところを知らないほどであったという。
自分がオランダ人といっしょに東都に来るたびに、いつも良沢は宿[長崎屋]に来て質問したり、同好の士を連れてきて自分を喜ばしている。
滞留中はいつも会って話をし、返ってからは千里の道を手紙でねんごろな挨拶をよこすのである。
だが、東都はいろいろな人間がおおぜい集まっているところであり、しかも、[江戸の]風俗は昔から浅薄で派手好きで、名をあげることのみはかり、利をむさぼる者が多いと自分は思っていたのである。
いまでは自分は前野君とは古い知り合いであるが、他は行きずりの人である。
そうであるから彼らがやたらにていねいで親切な言葉をかけてくることは、おそらく本心ではないのであろう。
自分としては内心いやな感じがすると思って、あまり彼らのことを気にとめないで数年を過ごした。
今年、癸巳の張る[安永二年(1773)]、またオランダ人と東都に来た。
前野君はまた同好の士を引きつれて自分を訪ねた。
ていねいな挨拶は昔通りである。
そのなかに若狭の医官杉田玄白という人がいた。
かれは自分の著した「解体新書」を出し、自分に見せ、
「 翼[玄白]は良沢氏に学び、おそれながらも遠くにおられる先生の教えの一端を受け、そこでやっと蘭書のうち解剖書を選び、これを読み、良沢氏に従って解釈し、従って訳し、ついにこのようなものを創り上げるまでになりました。
これはじつにうれしいことでございます。
そこで先生に一度お目通しいただいて疑問のヶ所を質すことをお願いできますならば、われわれが死んでもこの本は朽ちることがないでしょう」
と、述べた。
自分はこれを受けとり、読んだところ、内容が詳細で論旨がよく通り、事柄と言葉を原書と比べてみると一つも間違いがなかった。
そこで学問に忠実であるとはこういうことかと感心し、思わず涙がはらはらとこぼれた。
そしてはたと書物を閉じて、ため息をつき、ああついにこの快挙がなされたと感嘆したのであった。
わが国の幕府がオランダ人の入国を許して数百年がたつ。
その間にでた学者の数は数えきれない。
しかし、学者は翻訳することはできなかった。
また、通訳は文章が拙いのである。
そのため、いまだかって筋道をたててこの道を世に弘めた者はいなかったのである。
いま二人の豪傑の資質をもった学問に熱心で好ましい人がその精神力と智、巧を尽くしてついにここまで到達した。
これからのち、世の医者で志のある者がこの書物によって人間の成長やたくさんの骨の一を知ったうえで治療を施したならば、上は王侯から下は一般庶民に至るまで世紀をうけたすべての人々が天命をまっとうしないで夭折するようなことがなくなるであろう。
そうあってほしいと願っている。
また、後世も同じ志を持つ者は、これからはこの本を読めばそのための努力や施策は半分もいらないであろう。
ああ二君がこの仕事で手柄を立てたことはなんといっても最高なことだろう。
じつに天下後世にとっての徳である。
これからは幕府の人たちも、オランダ人が医学にくわし、おおいに人のためになるものであることが始めてわかるであろう。
ああなんとこの壮挙は素晴らしいことか。
大昔から今日までこの二人のような人物はまだいなかった。
ああ、以前自分は、この人たちを名をあげることのみはかり、利をむさぼる者と決めつけていたが、それは間違っていた。
二君がこれを勉めてくれることを心から望んでいる。
二人は丁重に
「これは自分たちの功績ではありません。
まことに先生の徳であります。
厚かましいお願いですが、先生に一言いただいて巻首に載せ、それをもって永く栄誉としたいのです」
といった。
自分はそれを辞退して言った。
吉雄永章は懦夫であるが、幸いに諸君の勉励努力のおかげで曹丘になることができた。
自分はこの盛挙にあずかるために生きてきただけのことである。
それをまことに深く恥ずかしく思っている。
下手な文章で見苦しいものを添えることは、永章にはとてもできない。
言うまでもなく、この書が発刊されて歳月がたてば、世間は自然に本書が基調であることがわかってくる。
永章が序文を書くことでこの書物の値打ちをあげる必要はないであろう、と。
しかし、二人はどうしても聞いてくれない。
とうとう自分が二人とどうして識り合ったかそのいきさつを記して、序文とすることになった。
安永二年{1773} 癸巳の春 三月
オランダ語通訳 西肥[長崎]
吉雄永章 撰
甲午孟春[安永三年正月]
東江源鱗 書
』
【習文:目次】
_